さんごく‐どうめい【三国同盟】
【三国同盟】(さんごくどうめい)
1882年、ドイツ、オーストリア、イタリアの間で締結された秘密軍事同盟。
1907年に成立した英仏露の三国協商と対抗し、1914年の第一次世界大戦ではドイツとオーストリアが「同盟国(中央同盟国)」を形成し、協商国陣営による「連合国」と交戦した。
しかしイタリアが1915年5月に連合国側につき、オーストリアに宣戦布告をしたことで崩壊した。
三国同盟
三国同盟(さんごくどうめい)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 10:15 UTC 版)
「バトルスピリッツ ブレイヴ」の記事における「三国同盟(さんごくどうめい)」の解説
クリミア半島のヤルタにて、ザジの提案で決まった,ザジ・バローネ・デュックの間で密かに交わされた同盟。呼称はかつてドイツとイタリア、日本の間で結ばれた同盟に由来する。デュックからはヤルタと合わせて「皮肉な演出」と言われていた。
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三国同盟
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先の河東一乱後の和睦はなったが、今川との関係は依然として緊迫した状況であり、天文17年(1548年)3月、氏康が織田信秀に宛てた返書(古証文写)の「一和がなったというのに、彼国(義元)からの疑心が止まないので迷惑している」という内容からもそれは見て取れる。 天文20年(1551年)8月頃より、武田・今川両氏との婚姻交渉を進め、氏康の娘を今川義元の嫡男に嫁がせ、武田晴信の娘を氏康の嫡男・西堂丸に嫁がせることになった。天文21年(1552年)正月頃、西堂丸は元服して新九郎氏親と名乗り、氏康は父・氏綱の官途名であった左京大夫を名乗った。ところが3月に入ると、氏親は病に倒れ、わずか16歳で死去してしまう。突然の事態により、氏康はやむなく次男の松千代丸を新たな後継者にすると共に武田晴信に対して婚約者の変更を申し入れた。翌天文22年(1553年)正月、氏康と晴信は婚約のやり直しに関する起請文を交わしている。一方、氏康と義元の間でも、氏康の娘が幼すぎる(天文21年時点で6歳)ということが問題視された。このため、氏康は当面の措置として実子の氏規を実質的に人質として、氏規にとっては外祖母にあたる寿桂尼に預けた。天正23年(1554年)正月頃、松千代丸は元服して新九郎氏政と名乗った。 一方「天文23年(1554年)、今川義元が三河国に出兵している隙を突いて再び駿河に侵攻するが、義元の盟友である武田晴信の援軍などもあって駿河侵攻は思うように進まなかった」といった後世に成立した北条の軍記物(『関八州古戦録』、『小田原五代記』)に描かれているような第3次河東一乱とみられる動きは、今川氏や武田氏・近隣国に関する同時代史料・軍記からは確認できず、先の興国寺領に関する旧説と遺跡・史料研究の齟齬からも、小和田哲男、有光友学、黒田基樹他、今川氏や後北条氏、武田氏の研究者による見解は否定的である。 天文23年(1554年)7月、今川氏の重臣・太原雪斎の仲介などもあって、娘・早川殿を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、12月には、前年に婚約の成立していた武田信玄の娘・黄梅院を嫡男・氏政の正室に迎えることで、武田・今川と同盟関係を結ぶに至った(甲相駿三国同盟)。これにより背後の駿河が固まったことになり、主に武田氏と軍事的連携を強化し、関東での戦いに専念することになる。
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