三国同盟と英米交渉
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1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は6月24日、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蔣行為の停止を要求した。 5月18日より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する一〇一号作戦が10月26日まで実施された。6月12日には宜昌占領。6月24日から6月29日までは連続して猛爆が行われた 。 1940年7月11日、アメリカは日本に対して、武力による領土獲得政策を堅持する諸国と協調するのか、という確認をしたが、米内内閣は答弁することがないまま、陸軍の総意によって 倒壊し、7月21日に第二次近衛内閣が成立する。 7月18日、英国、日本の要求に応じ援蔣ルート(ビルマルート)を閉鎖。7月26日、基本国策要綱で「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神」が唱えられた。7月27日の大本営では南方問題解決のため武力を用いることが決定された。8月1日、松岡外相は日本満州シナを一環とする大東亜共栄圏確立という外交方針を発表した。 8月20日〜12月5日 - 20万の八路軍が、山西から河北にかけての鉄道、通信網、日本軍警備拠点を一斉攻撃し、大攻勢をかけた百団大戦が展開される。日本軍は不意をつかれ、以後「敵性住民」の死滅も認めた報復攻撃によって八路軍の抗日根拠地の掃討作戦を開始し、中国はこれを三光作戦と呼んだ。この掃討作戦では毒ガスも使用されたといわれ、八路軍の抗日根拠地のなかには人口が3分の2になった地区もあった。 1940年9月14日、松岡外相は陸海軍首脳会議において「英米との連携は不可能ではないが、しかしそのためには支那事変を処理しなくてはならず」「残された道は独伊との提携」と主張、陸海首脳はこれに同意した。9月23日、日本軍、北部仏印進駐。9月25日、米国、国民政府に対し2500万ドルの借款を供与。9月27日には日独伊三国同盟が締結される。9月30日、米国、鉄鋼・屑鉄の対日輸出を禁止する法令を発布。日本はこれに抗議したが、ハル国務長官は、アメリカの国防上の判断であるとして抗議を拒絶した。 9月末 - 日本陸軍今井武夫大佐らの蔣介石夫人宋美齢の弟宋子良への日中和平工作(桐工作)を行っていたが、進展せず、断念(のちに宋子良を称した人物は偽物で、この和平工作は藍衣社の戴笠の指揮下に行われていたことが分かっている)。 10月4日、イギリスはビルマルート再開を中国側に通知する。同日、日本軍731部隊が衢県において細菌戦を実行したとされる。 10月23日、日本首脳会議で英米依存経済から自給圏確立のために南方問題を武力解決する方針が確認された。 11月〜12月 - 日本軍、漢水作戦。11月には支那派遣軍の兵力は20個中隊、総計72万8000人であった。11月23日日本は御前会議で支那事変処理要綱を決定、これは1938年11月30日の日支新関係調整方針と比較すると宥和的なものであった。11月30日、日本は汪兆銘南京政府と日華基本条約に調印し日満華共同宣言を発表、南京政府を中国中央政府として正式承認した。米英は即座に汪兆銘政府を否認、米国は国民政府に対して借款の追加供与1億ドル、12月10日には英国も国民政府に一千万ポンドの借款を供与すると発表した。12月11日、ソ連も国民政府に対し1億元の借款を供与(バーター決済)。12月13日、蔣介石はアメリカに航空機5〜10%の提供、日本本土遠距離爆撃のためにB17戦略爆撃機を要請した。 12月18日 - 英国、援蔣ルート(ビルマルート)を再開。 1941年(昭和16年)1月7日、国民政府の移動命令に応じなかった共産党との間で対立が激化し、国民党軍の包囲作戦によって共産党軍は壊滅的打撃を受けた(皖南事変)。1月25日、蔣介石はスターリンに軍律の問題に過ぎないと答えた。 1月〜2月 - 日本軍、予南作戦、3月15日、錦江作戦。 4月 - 米国、国民政府に5千万ドル借款成立、中ソ中立条約成立[要出典]。 4月13日 - 日ソ中立条約調印。蔣介石は衝撃を受けるが、ソ連は軍事援助はこれまで通り継続するとした。
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