三国史記に記される出生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 14:04 UTC 版)
『三国史記』によると新羅の第47代国王憲安王あるいは第48代国王景文王の庶子として生まれ、日官は王に「赤ん坊は重午日に生まれただけではなく、出生時の空がおぼろだったことや、生まれたばかりなのに歯が生えているところが不吉である」といい、王は弓裔を殺すように命令したという。 しかし兵は赤ん坊の弓裔を殺せず、宮殿の下に投げ捨ててしまった。宮殿の下で乳母が転落する弓裔を助けたが、弓裔は助けられた際に乳母の指が目に刺さり、それがもとで隻眼になった。乳母は弓裔と都から遠くに逃亡し、貧窮のなかで実の母として弓裔を育てたという。 弓裔が10歳になった頃、乳母は周囲と悶着を起こしてばかりいる弓裔に出生の秘密を告げた。乳母は「あなたは王室の子として生まれて、殺されるところだったのを気の毒に思った。それであなたを命をかけて育てたのに、あなたは毎日騒動を起こして私に心配ばかりがけている。それが悲しいのです。あなたの正体が知られると私たちは殺されるのですよ」と言った。弓裔は泣きながら「私が悪い。もう二度と母上に心配をかけることはないだろう」と言って家を出た。
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