三国会盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/18 03:39 UTC 版)
山口瑞鳳やハンガリーのJ・セルブらは1980年代にこの長慶会盟締結のときに、ウイグル帝国とチベット帝国との間にも講和が結ばれたとする仮説を提唱した。その後、森安孝夫がパリで敦煌文書の断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」という文言を発見した。また中国の李正宇がサンクトペテルブルクで敦煌文書断片Dx.1462から同様の内容の記録を発見し、三国会盟が締結されていたことが明らかになってきている。 これらの研究を総合すると、820年代当時の唐・チベット・ウイグルの国境は、清水県の秦州や天水と、原州をむすぶ南北の線が、唐とチベットの国境線であった。また、東西に走るゴビ砂漠が、ウイグルとチベットとの国境であった。 なお、ゴビ=アルタイ東南部のセブレイ(モンゴル語版)に、ウイグル語、ソグド語、漢文の三言語で記されたセブレイ碑文が現存しているが、森安は、このセブレイ碑文を、ウイグル側が三国会盟を記念して、建立したとしている。
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