こう‐わ〔カウ‐|コウ‐〕【講和/×媾和】
平和条約
(講和 から転送)
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平和条約(へいわじょうやく、peace treaty)とは戦争状態を終結させるための条約。講和条約(こうわじょうやく)、和約(わやく)ともいう。二つの敵対する勢力(通常は国家や政府)が、戦争や武力紛争の公式な終結を合意するものである。平和条約は、敵対状態の一時的な停止を合意する休戦協定(armistice)や、軍隊が武装を放棄することを合意する降伏(surrender)とは異なるものである。
- 1 平和条約とは
- 2 平和条約の概要
- 3 単独講和と全面講和
講和
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11月末になり、包囲は2ヶ月に及んだが依然として比叡山に籠る浅井・朝倉軍は降伏する様子を見せなかった。しかし、信長は反織田の勢力が連なるのを問題視し、11月30日、朝廷と足利義昭を動かして講和を画策した。一方の義景も豪雪により比叡山と本国の越前の連絡が断たれるという問題があり、継戦に不安を持っていた。この為、12月13日になって朝廷と義昭の仲介を受け入れ、信長との講和に同意した。翌14日、織田軍は勢田まで撤退し、浅井・朝倉軍はほぼ3ヶ月ぶりに高島を通って帰国、ここに志賀の陣は終了した。 12月に信長が義景に送った起請文には「上意のため」という足利義昭の関与を示す文言はあるが、天皇を示す文言は見当たらない。これは勅命の対象が延暦寺だけに限定されていたといえる。また織田と朝倉の和睦にもかかわらず、延暦寺、浅井、本願寺についての条項が含まれており、元亀争乱での反信長陣営の領袖が義景であったことを示している。
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講和
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カール10世は1660年初に病気に倒れ、2月23日に死去した。カール10世の死により和平の障害の1つが除かれ、4月23日にはオリヴァ条約が締結された。スウェーデンはスウェーデン領リヴォニア(英語版)の主権を認められ、ブランデンブルクはプロイセン公国の主権を承認され、ヤン2世カジミェシュはスウェーデン王位への請求を取り下げたがスウェーデン王の称号を死去まで保持することを承認された。占領地は全て原状回復とした。 しかし、デンマークは直近の成功によりスウェーデンの弱点を見つけ、和平に前向きではなかった。オランダは封鎖を解除したが、説得されて再びデンマークに肩入れした。フランスとイングランドはスウェーデン側で介入、再び大戦が起こるように思えた。しかし、デンマークの政治家ハンニバル・セヘステッド(英語版)は外国の直接介入を排除して平和条約を交渉、コペンハーゲン条約の締結に成功した。条約によりスウェーデンはボーンホルム島とトロンデラーグをデンマークに返還した。またデンマークはバルト海でのスウェーデンに対する海軍行動の禁止を約束した。1660年の条約は政治的にはデンマーク、スウェーデンとノルウェーの境界を定め、境界は現代まで続いた。また、スウェーデンはドミニウム・マリス・バルティキ(英語版)(環バルト海世界の覇権)を確保した。 ロシアは対ポーランド戦争を継続したが、スウェーデンとはカディス条約で講和、ロシアが占領したスウェーデン領を返還した。
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講和
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「第二次ミトリダテス戦争」の記事における「講和」の解説
スッラはアウルス・ガビニウスを使者として派遣し、ムレナに戦争をやめさせると共に、アリオバルザネス1世復位の実行をミトリダテス6世に求めた。交渉の結果、ミトリダテス6世は4歳の娘をアリオバルザネス1世に嫁がせ、代わりにカッパドキアの一部を得ることになった。かくして開戦から3年目に戦争は終わった。
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講和
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1912年10月18日、オスマン帝国はローザンヌで開かれた講和会議でイタリア側の要求の大部分を認める条約に署名した。これにより約1年間に亘って続いた同戦争は、オスマン帝国のイタリア王国に対する敗北という形で終結を見た。講和案は以下の通りとなった。 オスマン皇帝はトリポリタニア・フェザーン・キレナイカの宗主権をイタリア国王に譲渡する トブルクとベンガジの太守制度については形式的に維持されるが、太守任命はイタリア国王の裁可を必要とする また太守の給与はオスマン帝国が全額負担する ドデカネス諸島とロドス島は条約履行後に返却する 第一次世界大戦で再び両国は敵対した為、ドデカネス諸島はイタリアの軍事占領下に置かれた。1920年、中央同盟に加わっていたオスマン帝国が敗戦により解体されると、イタリアは戦勝国としてイギリス・フランス及びギリシャ王国と共にアナトリアを分割占領(イタリアが担当した領域は北西部であった)を行った。その後、セーヴル条約でアナトリアの植民化と東ローマ帝国を継承しようとしたギリシャの旧領回復が決定する。アナトリア北西部の植民化と引き換えにイタリアはドデカネス諸島をギリシャに渡す予定になっていた。 しかしセーヴル条約に反対する大規模な反乱が起こり、ギリシャの大遠征軍がムスタファ・ケマルに組織された革命軍に大敗を喫する事件が起きる(希土戦争)。イタリアは他の戦勝国同様にギリシャに見切りをつけ、新たにケマルの革命政府に対するアナトリア返還を決める。1923年、第二次ローザンヌ会議でイタリア王国はトルコ共和国を承認、トルコ共和国は返礼としてドデカネス諸島を割譲した。
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講和
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「第二次イタリア独立戦争」の記事における「講和」の解説
ドイツ諸国からの介入を恐れたナポレオン3世は戦争終結を目指すようになり、ヴィッラフランカの休戦でオーストリアと休戦協定を締結した。マントヴァとレニャーゴ要塞周辺を除くロンバルド=ヴェネト王国がオーストリアからフランスに割譲され、その直後にフランスがこれらの領地をサルデーニャに割譲した。開戦直後に革命がおきて追放された中央イタリア諸国の君主は復位すると定められた。 パレストロの戦いでサルデーニャ軍を率いたマンフレード・ファンティ(英語版) フランスのパトリス・ド・マクマオン。彼の参戦が勝利を確実なものにした ナポレオン3世がサルデーニャを捨てて結んだこの講和はサルデーニャを激怒させ、カヴール自身も辞任した。ヴィッラフランカで定められたことは11月のチューリッヒ条約で再確認されたが、その時にはすでに死文と化していた。サルデーニャは中央イタリア諸国の君主を復位させるつもりなどなく、その領地を占領していて、フランスも条約履行を強要するつもりがなかった。オーストリアは不満を募らせながらもフランスが条約を履行しないことを見ていることしかできなかった。オーストリアは1849年に自由主義運動を鎮圧したが、ヨーロッパの大国としての地位は厳しい挑戦を受け、イタリアにおける影響力も大幅に弱まった。 翌1860年、中央イタリア諸国(パルマ公国、モデナ公国、トスカーナ大公国)での国民投票を受け、サルデーニャ王国は英仏の許可を受けてこれら諸国を併合し、フランスは遅れてきた謝礼(サヴォワとニース)を受け取った。ニース出身のガリバルディは反発し、両シチリア王国を征服してサルディーニャ王に献上し、イタリア統一運動を成功させることとなった。 戦争中、プロイセン王国も1859年に13万2千人を動員したが参戦はしなかった。動員の問題が浮き彫りになったことでプロイセン軍は軍制改革を断行、1866年の普墺戦争と1870年から1871年までの普仏戦争で迅速に勝利を得、プロイセン主導でドイツ統一を成就させることとなった。
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「ネパール・チベット戦争」の記事における「講和」の解説
一連の戦いで両軍とも損害を出したが、チベット軍の方が被った損害の方が大きかった。加えて、チベットでは内紛が生じ、戦争の継続は困難となった。一方、ネパール側もまた、戦費が農民や市民の負担となり始め、物価の高騰もあって戦争の継続は困難となった。両者ともに戦争の終結を望み、チベットが講和を申し込んできた。 1856年、チベットの代表団はカトマンズに入り、タパタリ宮殿で会談が開かれた。そして、3月に両国の間でタパタリ条約が締結された。なお、太平天国の乱で動揺していた清の代表は会談にあくまで立会人の立場で参加し、条約に形式的な修正をもたらしただけであった。 タパタリ条約では相互の捕虜解放など、チベットへの領土返還が定められたが、これはネパール有利に結ばれたものであった。また、チベットには毎年1万ルピーの貢納やネパール商人の関税免除が定められるなど、チベットのネパールへの従属性を強めるものであった。
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「露土戦争 (1806年-1812年)」の記事における「講和」の解説
1812年、ナポレオンがロシア遠征を企図しているとの報が伝わると、ロシアでは対トルコ戦の継続は無理な状況となった。一方のオスマン帝国内部でも、新帝マフムト2世が推進しようとする政治改革と対保守派抗争のためには、ロシアとの戦争は足かせとなった。こうして、ロシア帝国・オスマン帝国の両国は1812年5月にワラキア(現ルーマニア)の都市ブカレストでブカレスト条約を結び、ロシアがベッサラビアを併合し、ワラキアおよびモルダヴィアをオスマン帝国に返還、オスマン帝国はセルビアに対し若干の自治を与えるという条件で講和した。セルビアがごく限定的なものであれ自治を獲得したことは、のちの独立への足がかりを築くものであった。
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「英西戦争 (1585年-1604年)」の記事における「講和」の解説
1603年3月にジェームズ1世がイングランド王に即位すると、最初の仕事としてスペイン王フェリペ3世との和平交渉を命じ、1604年8月18日にロンドン条約 (en) が締結された。 条約の条項はスペインに有利な内容で、イングランドは1585年のノンサッチ条約以来のオランダ人の反乱への支援とスペインの海上交易への攻撃を止めるよう決められた 。同時に、条約はイングランドにおけるカトリック再建を望まないことをスペインに承認させた。条約締結後、両国の和平は1625年のイングランド軍によるカディス遠征 (en) まで保たれた。
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講和
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元治元年8月8日(1864年9月8日)、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じた。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑馬を名乗り、四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨んだ。イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の高杉の様子を非常に傲然としていたが、出された要求は何の反対もせずに全て受け入れたと述べている。 18日に下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。 ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになった。これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能なこともあるが、今回の外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったまでという名目であった。 この談判の際に、すべての要求を受け入れた高杉が彦島の租借だけは断固として拒否し、香港のような外国の領土になるのを防いだという逸話が有名である。しかし、この話は当時の記録にはなく、ずっと後年になって長州側の通訳を努めた伊藤博文が述懐した話であり、真実か否かは不明である。
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講和
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詳細は「パリ講和会議」を参照 1919年1月18日よりパリにアメリカのウィルソン大統領、イギリスのロイド・ジョージ首相。フランスのクレマンソー首相、イタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相など連合国の首脳が集まり、パリ講和会議が行われた。しかし講和条件をめぐって会議は紛糾し、対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約が調印されたのは6月28日、対オーストリア講和条約であるサン=ジェルマン条約が調印されたのは9月10日、対ブルガリア講和条約であるヌイイ条約が締結されたのは11月27日であった。アメリカはこれらの条約に調印したが、国際連盟構想などに反発した議会の承認が得られず、ヌイイ条約以外には批准しなかった。このためアメリカは1921年8月11日に米独平和条約 (U.S.–German Peace Treaty (1921)) 、8月24日に米墺平和条約(US–Austrian Peace Treaty (1921))、8月29日に米洪平和条約 (US–Hungarian Peace Treaty (1921)) を個別に締結して講和した。
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講和
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1795年に至ってプロイセンは戦争の継続を断念し、フランス革命政府との講和を決めた。 講和はバーゼルで行われ、フランスからはスイス公使のフランソワ・ド・バルテルミー、プロイセンからはゴルツ、カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクが交渉にあたった。
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講和
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カトー・カンブレジ条約はアンリ2世とフェリペ2世の間で1559年4月3日に署名された。条約はカンブレーの20キロ南東にあるカトー=カンブレジで締結された。条約の定めにより、フランスはピエモンテとサヴォワをサヴォイア公に、コルシカ島をジェノヴァ共和国にそれぞれ返還し、イングランドからカレー、神聖ローマ帝国から三司教領(ヴェルダン、メス、トゥール)を獲得、またサルッツォの併合を認められた。スペインはフランシュ=コンテ地方を保持したほか、ミラノ公国、ナポリ王国、シチリア王国、サヴォイア公国、プレシディ領(英語版)への宗主権を全て認められ、さらにフィレンツェ公国、ジェノヴァ共和国ほかイタリアの小国への絶大な影響力を持った。教皇もスペインの同盟者であり、イタリアの国でスペインの統制を受けなかったのはサヴォイアとヴェネツィア共和国のみとなる。スペインによるイタリア統制は18世紀初めのスペイン継承戦争まで続いた。またこの条約により60年の長きにわたったイタリア戦争に終止符が打たれた。 条約のもう一つの取り決めにより、サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトがアンリ2世の妹でベリー女公のマルグリット・ド・フランスと結婚し、フェリペ2世はエリザベート・ド・ヴァロワと結婚した。アンリ2世はフェリペ2世結婚の祝宴会の一環で行われたモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュとの馬上槍試合において、偶発的に右目を貫かれた。モンゴムリ伯の槍はアンリ2世の脳にまで達し、アンリ2世はこの傷が元で死亡した。 この条約はフランスにとってはそこそこに満足できる結果となった。1520年代と比べると講和の条件はずっと良く、神聖ローマ帝国と対等に扱われた上領土の拡大にも成功した。しかし、本来の目的であったイタリアの勢力均衡を変えることには失敗し、ハプスブルク家のヘゲモニーを崩せなかった。さらに、ユグノー戦争で一時大国の位から転落した。ハプスブルク家全体にとっては、戦争のせいで神聖ローマ帝国での地位が揺らぎ、カール5世の帝国がスペインとドイツとに二分されたことからマイナスとなった。一方スペインはイタリアに影響力を持つ唯一の大国になり、フランスの介入も失敗したため十分に満足いく結果と言えた。イングランドは特に得るところがない上にカレーを失い、大陸での唯一の領土が失ったことでその名声は地に落ちた。
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講和
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10月5日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。薩摩藩は幕府から「海岸防禦費」の名目で借りた2万5000ポンドに相当する6万300両をイギリス側に支払い、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。
※この「講和」の解説は、「生麦事件」の解説の一部です。
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講和
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天正6年10月、摂津における石山本願寺討伐の要であった荒木村重の離反によって(有岡城の戦い)、信長の対石山本願寺戦略に重大な狂いを見せた。同時に、三木合戦で羽柴秀吉が三木城を攻めていたが、毛利氏が摂津に上陸して三木城に兵糧を運び込む恐れも出てきた。これを機に信長は朝廷を動かして、本願寺と毛利氏との和解を試みた。 11月4日、朝廷は信長の希望を受け入れて、正親町天皇が本願寺の顕如と毛利輝元に対し、信長と講和するよう勅命を下した。朝廷から本願寺に勅使が派遣されたが、顕如は毛利氏の賛同がないと応じられないとして勅命を拒否したため、交渉は決裂した。これを受けて、信長は毛利氏への勅使も派遣を検討した。 しかし、その直後、織田水軍が第二次木津川口海戦において毛利水軍に大勝し、11月24日に茨木城が開城すると、信長は急遽朝廷へと使者を飛ばし、毛利氏への勅使派遣を中止させ、和平交渉を取りやめた。その後、信長は村重攻略を進め、また村重の反乱自体が周辺の織田方武将の呼応を伴わなかったため、反乱自体は長期にわたったものの、石山本願寺攻略への影響は最小限に留まった。 第二次木津川口海戦での毛利水軍敗退を受けて、本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ始めた他、天正7年(1579年)10月には有岡城が陥落し、三木城の情勢もすこぶる悪くなっていたこともあり、12月、ついに恒久的な和議を検討するようになり、密かに朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を伝えた。その動きを期待していた信長側でも再度、朝廷に講和の仲介を働きかけていた。 そして、翌天正8年(1580年)1月、三木城が落城した。そのような状況の中で3月1日、朝廷は本願寺へ勧修寺晴豊と庭田重保を勅使として遣わして年寄衆の意向を質し、本願寺は和議を推し進めることで合意した。また、信長も別箇に開戦の経緯を知る近衛前久を派遣して本願寺側との妥協点を探った。以上の経緯から「勅命講和」という方式での和議を提案したのは信長側であったが、実際の講和申し入れは本願寺側からあったものと言える。 閏3月7日、本願寺は信長に誓紙の筆本を提出し、信長と本願寺は3度目の講和を果たした。条件は顕如ら門徒の大坂退城など以下の通り。 覚一 惣赦免事一 天王寺北城先近衛殿人数入替、大坂退城候刻、大子塚をも引取、今度使衆を可入置事一 人質為気仕可遣之事一 往還末寺如先々事一 加州二郡(江沼・能美)、大坂退城以後、於無如在者可返付事一 月切者七月盆前可究事一 花熊・尼崎、大坂退城之刻可渡事 三月十七日 朱印(信長)(「本願寺史」本願寺史料研究所編纂 浄土真宗本願寺派<西本願寺>発行) この他『信長公記』には退城の期限は7月20日だったと書かれている。また、講和条約に署名したのは顕如の3人の側近下間頼廉・下間頼龍・下間仲孝だった。 4月9日、顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡の教如に渡し、紀伊鷺森御坊に退去した。しかし雑賀や淡路の門徒は石山に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、信長に抵抗を続けるべきと教如に具申し、教如もこれに同調した。故に、顕如が石山を去った後も石山は信長に抵抗する教如勢が占拠し続けた。 7月2日、顕如は3人の使者を遣わして信長に御礼を行い、信長もそれに合わせて顕如に御礼を行った。これと前後して荒木村重が花隈城の戦いに敗れ去るなどの情勢悪化や近衛前久の再度の説得工作によって石山の受け渡しを教如派も受け入れて雑賀に退去し、8月2日に石山は信長のものとなった。 が、引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くした。『信長公記』では松明の火が風で燃え移ったとされている。『多門院日記』には、「退去を快しとしなかった教如方が火を付けた」と噂されたとある。8月、佐久間信盛は信長から折檻状を突きつけられて織田家から追放されたが、理由の1つに石山本願寺を包囲するだけで積極的に戦を仕掛けなかったことを挙げている。 また信長と石山本願寺の交渉の影には森成利(森蘭丸)の母の妙向尼がいた。妙向尼は和睦成立に奔走し、本願寺の危機を救った。森成利を通じて情報を得た妙向尼は信長と直接、面会し、直談判をして信長の石山本願寺の追撃を断念させた。信長は当時、本願寺との和睦に際して「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に和睦を提示した。
※この「講和」の解説は、「石山合戦」の解説の一部です。
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講和
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「スペイン・ポルトガル戦争 (1776年-1777年)」の記事における「講和」の解説
1777年2月24日にポルトガル王ジョゼ1世が死去すると、後継者のマリア1世はポンバル侯爵を罷免、10月1日にスペインと第一次サン・イルデフォンソ条約を締結した。 スペインはサンタ・カタリナ島を返還、リオ・グランデ・デ・サン・ペドロをポルトガル領として承認したが、ポルトガルが1680年に創設したコロニア・デル・サクラメントを獲得した。スペインはバンダ・オリエンタル(現ウルグアイ)とミシオネス・オリエンタレス(英語版)も保持した。その代償としてスペインはポルトガルがトルデシリャス条約で定めた線を越えて得た領土を承認した。 スペインはさらに1778年3月11日のエル・パルド条約(英語版)でスペイン領ギニア(現赤道ギニア)を獲得した。スペイン領ギニアは1778年から1810年までブエノスアイレスから統治された。
※この「講和」の解説は、「スペイン・ポルトガル戦争 (1776年-1777年)」の解説の一部です。
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「露土戦争 (1828年-1829年)」の記事における「講和」の解説
スルターンは平和を求めること以外のいかなる選択もせず、1829年9月14日のエディルネ条約において終戦を迎えた。黒海の東海岸の大部分とドナウ川河口がオスマン帝国からロシア帝国に割譲された。オスマン帝国は、グルジアおよび現代のアルメニアの領域においてロシア帝国の主権を認め、セルビアは自治権を獲得した。ロシア帝国はオスマン帝国がその莫大な賠償金を支払い終えるまでの間、モルダヴィアとワラキアを彼らの繁栄と商取引の完全なる自由を保障することを条件に占領する権利を得た。海峡問題は4年後のウンキャル・スケレッシ条約への署名によって解決した。
※この「講和」の解説は、「露土戦争 (1828年-1829年)」の解説の一部です。
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講和
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「スウェーデン・ブランデンブルク戦争」の記事における「講和」の解説
1678年にオランダでナイメーヘンの和約が結ばれたことで、スウェーデン・ブランデンブルク間でも戦争は終結に向かった。1679年にフランスが調停に入ったが、これはスウェーデンにとって屈辱の和平であった。フランスは北方の同盟国の勢力弱体を恐れ、1648年のヴェストファーレン条約を盾にブランデンブルク選帝侯に占領地の返還を強く要求した。 最終的にブランデンブルク選帝侯はこの要求を受け入れ、スウェーデンとサン=ジェルマン条約を締結した(実際に締結したのは、フランスとブランデンブルク選帝侯)が、僅かな領土の獲得には成功し、スウェーデンの大陸における影響力を排除することに成功した。同様にナイメーヘンの和約とデンマークとのフォンテーヌブロー条約においても、スウェーデンはフランスに主導権を握られてしまうのである(スコーネ戦争は最終的にルンド条約で講和)。
※この「講和」の解説は、「スウェーデン・ブランデンブルク戦争」の解説の一部です。
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講和
「講和」の例文・使い方・用例・文例
- パリ講和条約
- 講和条約がその2国間で調印された
- 戦勝国は敗戦国に講和条件を指令した。
- このまえの講和会議で、完全に失敗してから、かれはざん新な権謀術策で、十分に武装すべきことを学んだ。
- 講和[雇用]条件.
- …に講和を申し入れる.
- パリ講和条約.
- 講和条約に調印する.
- 名誉ある講和.
- 講和条約.
- 講和を求める.
- 我々は彼らと講和状態に[交戦中で]ある.
- 日本はアメリカと講和条約を結んだ.
- 講和条約が両国間で調印された.
- 1952 年にアメリカとの講和条約の締結と抱き合わせに安保条約が発効した.
- 講和の提案をする
- 講和を申出る
- 講和を提議する
- 講和談判
- 講和会議
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