講和とは? わかりやすく解説

こう‐わ〔カウ‐|コウ‐〕【講和/×媾和】

読み方:こうわ

[名](スル)交戦国が、互いに協定結んで戦争をやめ、平和を回復すること。「—を結ぶ」


平和条約

(講和 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 01:22 UTC 版)

平和条約(へいわじょうやく、peace treaty)とは、戦争状態を終結させるための条約講和条約(こうわじょうやく)、和約(わやく)ともいう。二つの敵対する勢力(通常は国家政府)が、戦争や武力紛争の公式な終結を合意するものである。平和条約は、敵対状態の一時的な停止を合意する休戦協定(armistice)や、軍隊が武装を放棄することを合意する降伏(surrender)とは異なるものである。




「平和条約」の続きの解説一覧

講和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:06 UTC 版)

志賀の陣」の記事における「講和」の解説

11月末になり、包囲は2ヶ月及んだ依然として比叡山籠る浅井・朝倉軍降伏する様子見せなかった。しかし、信長は反織田勢力連なるのを問題視し11月30日朝廷足利義昭動かして講和を画策した。一方の義景も豪雪により比叡山本国越前連絡断たれるという問題があり、継戦に不安を持っていた。この為12月13日になって朝廷義昭仲介受け入れ信長との講和に同意した。翌14日織田軍は勢田まで撤退し浅井・朝倉軍はほぼ3ヶ月ぶりに高島通って帰国、ここに志賀の陣終了した12月信長が義景に送った起請文には「上意のため」という足利義昭関与を示す文言はあるが、天皇を示す文言見当たらない。これは勅命対象延暦寺だけに限定されていたといえる。また織田朝倉和睦にもかかわらず延暦寺浅井本願寺についての条項含まれており、元亀争乱での反信長陣営領袖が義景であったことを示している。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 07:59 UTC 版)

北方戦争」の記事における「講和」の解説

カール10世1660年初に病気倒れ2月23日死去したカール10世死により和平障害1つ除かれ4月23日にはオリヴァ条約締結された。スウェーデンスウェーデンリヴォニア英語版)の主権認められブランデンブルクプロイセン公国主権承認されヤン2世カジミェシュスウェーデン王位への請求取り下げたスウェーデン王称号死去まで保持することを承認された。占領地全て原状回復とした。 しかし、デンマーク直近の成功によりスウェーデン弱点を見つけ、和平前向きではなかった。オランダ封鎖解除したが、説得されて再びデンマーク肩入れした。フランスイングランドスウェーデン側で介入、再び大戦が起こるように思えた。しかし、デンマーク政治家ハンニバル・セヘステッド(英語版)は外国直接介入排除して平和条約交渉コペンハーゲン条約締結成功した条約によりスウェーデンボーンホルム島とトロンデラーグデンマーク返還した。またデンマークバルト海でのスウェーデン対す海軍行動禁止約束した1660年条約政治的にデンマークスウェーデンノルウェー境界定め境界現代まで続いたまた、スウェーデンはドミニウム・マリス・バルティキ(英語版)(環バルト海世界覇権)を確保したロシア対ポーランド戦争を継続したが、スウェーデンとはカディス条約で講和、ロシア占領したスウェーデン領を返還した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/26 05:29 UTC 版)

第二次ミトリダテス戦争」の記事における「講和」の解説

スッラアウルス・ガビニウス使者として派遣しムレナ戦争やめさせると共に、アリオバルザネス1世復位実行ミトリダテス6世求めた交渉結果ミトリダテス6世4歳の娘をアリオバルザネス1世に嫁がせ、代わりにカッパドキア一部を得ることになったかくして開戦から3年目戦争終わった

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 20:33 UTC 版)

伊土戦争」の記事における「講和」の解説

1912年10月18日オスマン帝国ローザンヌ開かれた講和会議イタリア側の要求大部分認め条約署名した。これにより約1年間亘って続いた戦争は、オスマン帝国イタリア王国対す敗北という形で終結見た。講和案は以下の通りとなったオスマン皇帝はトリポリタニア・フェザーン・キレナイカの宗主権イタリア国王譲渡する トブルクベンガジ太守制度について形式的に維持されるが、太守任命イタリア国王裁可を必要とする また太守給与オスマン帝国全額負担する ドデカネス諸島ロドス島条約履行後に返却する 第一次世界大戦で再び両国敵対した為、ドデカネス諸島イタリアの軍事占領下置かれた。1920年中央同盟加わっていたオスマン帝国敗戦により解体されると、イタリア戦勝国としてイギリス・フランス及びギリシャ王国と共にアナトリア分割占領イタリア担当した領域北西部であった)を行ったその後セーヴル条約アナトリア植民化と東ローマ帝国継承しようとしたギリシャ旧領回復決定するアナトリア北西部植民化と引き換えイタリアドデカネス諸島ギリシャに渡す予定になっていた。 しかしセーヴル条約反対する大規模な反乱起こりギリシャの大遠征軍ムスタファ・ケマル組織され革命軍大敗喫する事件起きる(希土戦争)。イタリアは他の戦勝国同様にギリシャ見切りをつけ、新たにケマル革命政府対すアナトリア返還決める。1923年第二次ローザンヌ会議イタリア王国トルコ共和国承認トルコ共和国返礼としてドデカネス諸島割譲した

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第二次イタリア独立戦争」の記事における「講和」の解説

ドイツ諸国からの介入恐れたナポレオン3世戦争終結目指すようになり、ヴィッラフランカの休戦オーストリア休戦協定締結したマントヴァレニャーゴ要塞周辺を除くロンバルド=ヴェネト王国オーストリアからフランス割譲され、その直後フランスがこれらの領地サルデーニャ割譲した開戦直後革命がおきて追放され中央イタリア諸国君主復位すると定められた。 パレストロの戦いサルデーニャ軍を率いたマンフレード・ファンティ(英語版フランスパトリス・ド・マクマオン彼の参戦勝利を確実なものにした ナポレオン3世サルデーニャ捨てて結んだこの講和はサルデーニャ激怒させ、カヴール自身辞任した。ヴィッラフランカで定められたことは11月チューリッヒ条約再確認されたが、その時にはすでに死文化していた。サルデーニャ中央イタリア諸国君主復位させるつもりなどなく、その領地占領していて、フランス条約履行強要するつもりがなかった。オーストリアは不満を募らせながらもフランス条約履行しないことを見ていることしかできなかった。オーストリア1849年自由主義運動鎮圧したが、ヨーロッパの大国としての地位厳し挑戦を受け、イタリアにおける影響力大幅に弱まった。 翌1860年中央イタリア諸国パルマ公国モデナ公国トスカーナ大公国)での国民投票を受け、サルデーニャ王国英仏許可受けてこれら諸国併合しフランス遅れてきた謝礼サヴォワニース)を受け取ったニース出身ガリバルディ反発し両シチリア王国征服してサルディーニャ王に献上しイタリア統一運動成功させることとなった戦争中プロイセン王国1859年13万2千人動員した参戦はしなかった。動員問題浮き彫りになったことでプロイセン軍軍制改革断行1866年普墺戦争1870年から1871年までの普仏戦争迅速に勝利を得、プロイセン主導ドイツ統一成就させることとなった

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ネパール・チベット戦争」の記事における「講和」の解説

一連の戦いで両軍とも損害出したが、チベット軍の方が被った損害の方が大きかった加えてチベットで内紛生じ戦争の継続は困難となった一方ネパール側もまた、戦費農民市民負担となり始め物価高騰もあって戦争の継続は困難となった両者ともに戦争の終結望みチベットが講和を申し込んできた。 1856年チベット代表団カトマンズ入り、タパタリ宮殿会談開かれた。そして、3月両国の間でタパタリ条約締結された。なお、太平天国の乱動揺していた清の代表は会談にあくまで立会人立場参加し条約形式的な修正もたらしただけであったタパタリ条約では相互捕虜解放など、チベットへ領土返還定められたが、これはネパール有利に結ばれたものであったまた、チベットには毎年1万ルピー貢納ネパール商人関税免除定められるなど、チベットネパールへ従属性を強めるものであった

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露土戦争 (1806年-1812年)」の記事における「講和」の解説

1812年ナポレオンロシア遠征企図しているとの報が伝わると、ロシアでは対トルコ戦の継続は無理な状況となった一方オスマン帝国内部でも、新帝マフムト2世推進しようとする政治改革と対保守派抗争のためには、ロシアとの戦争足かせとなった。こうして、ロシア帝国オスマン帝国両国1812年5月ワラキア(現ルーマニア)の都市ブカレストブカレスト条約を結び、ロシアベッサラビア併合しワラキアおよびモルダヴィアオスマン帝国返還オスマン帝国セルビア対し若干自治与えるという条件で講和した。セルビアがごく限定的なものであれ自治獲得したことは、のちの独立へ足がかりを築くものであった

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:40 UTC 版)

英西戦争 (1585年-1604年)」の記事における「講和」の解説

1603年3月ジェームズ1世イングランド王即位すると、最初の仕事としてスペイン王フェリペ3世との和平交渉命じ1604年8月18日ロンドン条約 (en) が締結された。 条約条項スペイン有利な内容で、イングランド1585年ノンサッチ条約以来オランダ人の反乱への支援スペイン海上交易への攻撃止めるよう決められた 。同時に条約イングランドにおけるカトリック再建望まないことをスペイン承認させた。条約締結後両国和平1625年イングランド軍によるカディス遠征 (en) まで保たれた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 00:46 UTC 版)

下関戦争」の記事における「講和」の解説

元治元年8月8日1864年9月8日)、戦闘惨敗喫した長州藩は講和使節使者高杉晋作任じた。この時、高杉脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前養子宍戸刑馬を名乗り四国連合艦隊旗艦ユーライアラス号に乗り込んでキューパー司令官との談判臨んだイギリス側通訳アーネスト・サトウはこの時の高杉様子を非常に傲然としていたが、出され要求何の反対もせずに全て受け入れた述べている。 18日下関海峡外国船の通航の自由、石炭食物など外国船の必要品売り渡し悪天候時の船員下関上陸許可下関砲台撤去賠償金300ドル支払い5条件を受け入れて講和が成立した。 ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府請求することになった。これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能なこともあるが、今回外国船への攻撃幕府朝廷約束し諸藩通達し命令従ったまでという名目であった。 この談判の際に、すべての要求受け入れた高杉彦島租借だけは断固として拒否し香港のような外国領土になるのを防いだという逸話が有名である。しかし、この話は当時の記録にはなく、ずっと後年になって長州側の通訳努めた伊藤博文述懐した話であり、真実か否か不明である。

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フランス第三共和政」の記事における「講和」の解説

詳細は「パリ講和会議」を参照 1919年1月18日よりパリアメリカウィルソン大統領イギリスロイド・ジョージ首相フランスクレマンソー首相イタリアヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相など連合国首脳集まりパリ講和会議が行われた。しかし講和条件めぐって会議紛糾し、対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約調印されたのは6月28日、対オーストリア講和条約であるサン=ジェルマン条約調印されたのは9月10日、対ブルガリア講和条約であるヌイイ条約締結されたのは11月27日であったアメリカはこれらの条約調印したが、国際連盟構想などに反発した議会承認得られず、ヌイイ条約以外には批准しなかった。このためアメリカ1921年8月11日米独平和条約 (U.S.–German Peace Treaty (1921)) 、8月24日米墺平和条約(US–Austrian Peace Treaty (1921))、8月29日米洪平和条約 (US–Hungarian Peace Treaty (1921)) を個別締結して講和した。

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バーゼルの和約」の記事における「講和」の解説

1795年至ってプロイセン戦争の継続断念しフランス革命政府との講和を決めた。 講和はバーゼル行われフランスからはスイス公使フランソワ・ド・バルテルミープロイセンからはゴルツカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク交渉あたった

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 23:13 UTC 版)

第六次イタリア戦争」の記事における「講和」の解説

カトー・カンブレジ条約アンリ2世フェリペ2世の間で1559年4月3日署名された。条約カンブレー20キロ南東にあるカトー=カンブレジ締結された。条約定めにより、フランスピエモンテサヴォワサヴォイア公に、コルシカ島ジェノヴァ共和国それぞれ返還しイングランドからカレー神聖ローマ帝国から三司教領(ヴェルダンメストゥール)を獲得、またサルッツォ併合認められた。スペインフランシュ=コンテ地方保持したほか、ミラノ公国ナポリ王国シチリア王国サヴォイア公国、プレシディ領(英語版)への宗主権全て認められ、さらにフィレンツェ公国ジェノヴァ共和国ほかイタリア小国への絶大な影響力持った教皇スペイン同盟者であり、イタリアの国でスペイン統制を受けなかったのはサヴォイアヴェネツィア共和国のみとなる。スペインによるイタリア統制18世紀初めスペイン継承戦争まで続いた。またこの条約により60年長きわたったイタリア戦争終止符打たれた。 条約もう一つ取り決めにより、サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトアンリ2世の妹でベリー女公マルグリット・ド・フランス結婚しフェリペ2世エリザベート・ド・ヴァロワ結婚したアンリ2世フェリペ2世結婚祝宴会の一環行われたモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュとの馬上槍試合において、偶発的に右目を貫かれた。モンゴムリ伯のアンリ2世の脳にまで達しアンリ2世はこの傷が元で死亡した。 この条約フランスにとってはそこそこに満足できる結果となった1520年代比べると講和の条件はずっと良く神聖ローマ帝国対等に扱われ上領土の拡大にも成功した。しかし、本来の目的であったイタリア勢力均衡変えることには失敗しハプスブルク家ヘゲモニー崩せなかった。さらに、ユグノー戦争一時大国の位から転落したハプスブルク家全体にとっては、戦争のせいで神聖ローマ帝国での地位揺らぎカール5世帝国スペインドイツとに二分されたことからマイナスとなった一方スペインイタリア影響力を持つ唯一の大国になり、フランスの介入失敗したため十分に満足いく結果と言えた。イングランドは特に得るところがない上にカレー失い大陸での唯一の領土失ったことでその名声地に落ちた

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:17 UTC 版)

生麦事件」の記事における「講和」の解説

10月5日イギリス薩摩藩横浜イギリス公使館にて講和に至った薩摩藩幕府から「海岸防禦費」の名目借りた2万5000ポンド相当する6300両をイギリス側支払い講和条件一つである生麦事件加害者処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:12 UTC 版)

石山合戦」の記事における「講和」の解説

天正6年10月摂津における石山本願寺討伐の要であった荒木村重離反によって(有岡城の戦い)、信長の対石山本願寺戦略重大な狂い見せた同時に三木合戦羽柴秀吉三木城攻めていたが、毛利氏摂津上陸して三木城兵糧運び込む恐れ出てきた。これを機に信長朝廷動かして本願寺毛利氏との和解試みた11月4日朝廷信長希望受け入れて正親町天皇本願寺顕如毛利輝元対し信長講和するよう勅命下した朝廷から本願寺勅使派遣されたが、顕如毛利氏賛同がないと応じられないとして勅命拒否したため、交渉決裂した。これを受けて信長毛利氏への勅使派遣検討した。 しかし、その直後織田水軍第二次木津川口海戦において毛利水軍大勝し11月24日茨木城開城すると、信長急遽朝廷へと使者飛ばし毛利氏への勅使派遣中止させ、和平交渉取りやめた。その後信長攻略進め、また重の反乱自体周辺織田武将呼応を伴わなかったため、反乱自体長期わたったものの、石山本願寺攻略への影響最小限に留まった。 第二次木津川口海戦での毛利水軍敗退受けて本願寺将来弾薬食料欠乏恐れ始めた他、天正7年1579年10月には有岡城陥落し三木城情勢すこぶる悪くなっていたこともあり、12月、ついに恒久的な和議検討するようになり、密かに朝廷先年和解話のやり直し希望伝えた。その動き期待していた信長側でも再度朝廷に講和の仲介働きかけていた。 そして、翌天正8年1580年1月三木城落城した。そのような状況の中で3月1日朝廷本願寺勧修寺晴豊庭田重保勅使として遣わして年寄衆意向質し本願寺和議推し進めることで合意したまた、信長別箇開戦の経緯を知る近衛前久派遣して本願寺側との妥協点探った。以上の経緯から「勅命講和」という方式での和議提案したのは信長であったが、実際の講和申し入れ本願寺側からあったものと言える。 閏3月7日本願寺信長誓紙の筆本を提出し信長本願寺3度目の講和を果たした条件顕如門徒大坂退城など以下の通り覚一赦免一 天王寺北城近衛殿人数入替、大坂退城候刻、大子塚をも引取今度使衆を可入置事一 人質為気仕可遣之事一 往末寺先々事一 加州二郡(江沼・能美)、大坂退城以後、於無如在者可返付一 月切者七月盆前可究事一 花熊・尼崎大坂退城之刻可渡事 三月十七朱印信長)(「本願寺史」本願寺史料研究編纂 浄土真宗本願寺派西本願寺発行この他信長公記』には退城期限7月20日だったと書かれているまた、講和条約署名したのは顕如の3人の側近下間頼廉下間頼龍下間仲孝だった。 4月9日顕如石山本願寺嫡子新門跡の教如渡し紀伊鷺森御坊退去した。しかし雑賀淡路門徒石山届けられる兵糧妻子養っていたため、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ信長抵抗続けるべきと教如具申し教如もこれに同調した故に顕如石山去った後も石山信長抵抗する教如勢が占拠し続けた7月2日顕如は3人の使者遣わして信長御礼行い信長もそれに合わせて顕如御礼行った。これと前後して荒木村重花隈城の戦い敗れ去るなどの情勢悪化近衛前久再度説得工作によって石山受け渡し教如派も受け入れて雑賀退去し8月2日石山信長のものとなった。 が、引き渡し直後石山本願寺出火し三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くした。『信長公記』では松明の火が風で燃え移ったとされている。『多門院日記』には、「退去快しとしなかった教如方が火を付けた」と噂されたとある。8月佐久間信盛信長から折檻状を突きつけられて織田家から追放されたが、理由1つ石山本願寺包囲するだけで積極的に戦を仕掛けなかったことを挙げている。 また信長石山本願寺交渉の影には森成利森蘭丸)の母の妙向尼がいた。妙向尼和睦成立奔走し本願寺危機救った森成利通じて情報得た妙向尼信長直接面会し直談判をして信長石山本願寺追撃断念させた。信長当時本願寺との和睦に際して金山城下に浄土真宗の寺院建立子息妙向尼の子)の一人出家」させることを条件和睦提示した

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スペイン・ポルトガル戦争 (1776年-1777年)」の記事における「講和」の解説

1777年2月24日ポルトガル王ジョゼ1世死去すると、後継者マリア1世ポンバル侯爵罷免10月1日スペイン第一次サン・イルデフォンソ条約締結したスペインサンタ・カタリナ島返還、リオ・グランデ・デ・サン・ペドロをポルトガル領として承認したが、ポルトガル1680年創設したコロニア・デル・サクラメント獲得したスペインバンダ・オリエンタル(現ウルグアイ)とミシオネス・オリエンタレス(英語版)も保持した。その代償としてスペインポルトガルトルデシリャス条約定めた線を越えて得た領土承認したスペインはさらに1778年3月11日エル・パルド条約英語版)でスペイン領ギニア(現赤道ギニア)を獲得したスペイン領ギニア1778年から1810年までブエノスアイレスから統治された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 14:20 UTC 版)

露土戦争 (1828年-1829年)」の記事における「講和」の解説

スルターンは平和を求めること以外のいかなる選択もせず、1829年9月14日エディルネ条約において終戦迎えた黒海東海岸大部分ドナウ川河口オスマン帝国からロシア帝国割譲された。オスマン帝国は、グルジアおよび現代アルメニア領域においてロシア帝国主権認めセルビア自治権獲得したロシア帝国オスマン帝国がその莫大な賠償金支払い終えるまでの間、モルダヴィアワラキアを彼らの繁栄商取引の完全なる自由を保障することを条件占領する権利得た海峡問題4年後のウンキャル・スケレッシ条約への署名によって解決した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 10:27 UTC 版)

スウェーデン・ブランデンブルク戦争」の記事における「講和」の解説

1678年オランダナイメーヘンの和約結ばれたことで、スウェーデン・ブランデンブルク間でも戦争終結向かった1679年フランス調停入ったが、これはスウェーデンにとって屈辱和平であったフランス北方同盟国勢力弱体恐れ1648年ヴェストファーレン条約を盾にブランデンブルク選帝侯占領地返還強く要求した最終的にブランデンブルク選帝侯はこの要求受け入れスウェーデンサン=ジェルマン条約締結した実際に締結したのは、フランスブランデンブルク選帝侯)が、僅かな領土の獲得には成功しスウェーデン大陸における影響力排除することに成功した同様にナイメーヘンの和約デンマークとのフォンテーヌブロー条約においても、スウェーデンフランス主導権握られてしまうのであるスコーネ戦争最終的にルンド条約で講和)。

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講和

出典:『Wiktionary』 (2021/08/14 23:56 UTC 版)

別表記

名詞

 こうわ 「媾」の「同音の漢字による書きかえ」)

  1. 交戦国互いに協定結び戦争止め平和状態戻すこと。

発音(?)

こ↗ーわ

動詞

活用

サ行変格活用
講話-する

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