にっソ‐きょうどうせんげん【日ソ共同宣言】
日ソ共同宣言(にっそきょうどうせんげん)
日本と旧ソ連の間で平和条約が締結されたあとに、旧ソ連が歯舞諸島と色丹島を日本側に引き渡すことを定めている。1956年、両国間の戦争状態を終結させ、国交を回復するために締結された。
日本の敗戦後、旧ソ連との間で平和条約の締結を目指す交渉が1955年から始まったが、北方四島をめぐる領土問題の解決が難しく、交渉は難航していた。そのような中で、領土問題はしばらく棚上げすることにして、とりあえず、戦争状態の終結と外交関係の回復を宣言する日ソ共同宣言が調印された。
また、歴史的には、国連の常任理事国だった当時のソ連に、日本が国連に加盟することを認めさせた点も、この文書の大きな役割だった。
旧ソ連は、1960年の日米安保条約改定に反発して、日ソ共同宣言を一方的に破棄したという経緯がある。また、平和条約締結のための交渉がなかなか実を結ばなかったこともあり、日ソ共同宣言の有効性は、あいまいにされたまま現在に至っている。
北方領土の帰属をめぐる問題が平和条約締結の大きなネックとなっていることもあり、両国間の交渉はどこまで続くのか先が見えない。
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(2001.03.25更新)
日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言
(日ソ共同宣言 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 09:11 UTC 版)
日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(にほんこくとソヴィエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽうとのきょうどうせんげん、ロシア語: Совместная декларация Союза Советских Социалистических Республик и Японии、昭和31年12月12日・条約第20号)は、1956年(昭和31年)10月19日に日本国とソビエト連邦がモスクワで署名し、同年12月12日に発効[1]した条約。これによって両国の国交が回復して外交関係も正常化したが、国境確定問題(北方領土問題)は先送りされた。通称は「日ソ共同宣言」(にっそきょうどうせんげん、ロシア語:Советско-Японская Совместная Декларация)と言う。
注釈
- ^ 本共同宣言において「ひとしく正文である日本語及びロシア語」と明記されている。
- ^ 日本と同じ敗戦国で西側の一員である西ドイツは、解決が難しい問題を棚上げにする「アデナウアー方式」により、1956年1月にソ連と国交を樹立している[3]。
- ^ 8月5日にマリクから歯舞群島と色丹島の二島を引き渡す旨申し出があり、松本はこれを肯定的に捉えて東京に打電するが、外務大臣であった重光葵によってもみ消された[7][5]。
- ^ 当時は片道5日の長旅であり、高齢で病身の鳩山にとっては命がけであり、妻の薫や看護師が同行した[4][7]。薫は出発の前に「おじいさまはお骨になって帰ってくるかもしれないから、よく見ておきなさいよ」と孫の鳩山邦夫に語りかけていた[3]。
- ^ ソ連側は「両国間の友好関係に基づいた、本来ソ連領である同地域の引き渡し」と主張した。
- ^ 国際連合憲章での敵国条項の適用国で、旧枢軸国である。
- ^ なお、日本は第2次世界大戦の開始に伴う国交断絶後に南アフリカ共和国との領事関係を1952年から復活させていたが、正式な外交関係は無く、ソ連は南アフリカ政府によるアパルトヘイト政策への抗議で1956年に国交を断絶していたため、両国共に正式な外交関係の無い第三国での交流となった。
- ^ フルシチョフの方から先手を打って「もう1本いりませんか」と申し出たとも[7]。
出典
- ^ 1956年(昭和31年)12月12日外務省告示第131号「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言の効力の発生」
- ^ “【北方領土 屈辱の交渉史(3)】密約にスターリンは狂喜した 米ソのパワーゲームに翻弄された千島列島”. 産経ニュース (2016年11月26日). 2022年5月15日閲覧。
- ^ a b c d e “【北方領土 屈辱の交渉史(5)】「抑留者の命には限りがある」 領土問題棚上げでも日ソ国交回復急いだ鳩山一郎”. 産経ニュース (2016年11月29日). 2022年5月15日閲覧。
- ^ a b c d e 三宅久之『三宅久之の書けなかった特ダネ』青春出版社、2010年、19-25頁。ISBN 978-4-413-04293-2。OCLC 679421114。
- ^ a b c d e “【北方領土 屈辱の交渉史(4)】「歯舞、色丹の2島返す」揺さぶるソ連 窮地の重光葵を待っていたのは… 米国の恫喝「4島返還でないと沖縄返さない」”. 産経ニュース (2016年11月28日). 2022年5月15日閲覧。
- ^ “日ソ国交正常化問題に関するドムニツキー書簡”. データベース「世界と日本」. 東京大学東洋文化研究所. 2022年5月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g “河野家三代 領土への挑戦”. NHK政治マガジン. 日本放送協会 (2019年3月6日). 2022年5月15日閲覧。
- ^ a b “国際連合への加盟”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 外務省 (2020年7月1日). 2022年5月15日閲覧。
- ^ “【北方領土 屈辱の交渉史(6)=完】父・晋太郎に見た命懸けの対ソ外交 安倍晋三首相は新たな日露時代を切り開けるか”. 産経ニュース (2016年11月30日). 2022年5月15日閲覧。
- ^ “外務省:日ソ・日露間の平和条約締結交渉”. 2010年11月3日閲覧。
- ^ 河野一郎『今だから話そう』春陽堂書店 1958年2月1日 PP.77-80
- ^ 豊田穣『英才の家系 鳩山一郎と鳩山家の人々』 講談社 1989年 p534 ISBN 4-06-204152-9、講談社文庫 1996年10月。この著作は、当該記述自体には出典が記載がないが、参考文献に 河野一郎『今だから話そう』春陽堂書店 を掲げている
- ^ 鳩山薫、鳩山一郎『鳩山一郎・薫日記 下巻 鳩山薫篇 』p314 中央公論新社 2005年3月
- 1 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言とは
- 2 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言の概要
- 3 その後の影響
- 4 エピソード
日ソ共同宣言(昭和31年条約第20号)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:12 UTC 版)
「北方領土問題」の記事における「日ソ共同宣言(昭和31年条約第20号)」の解説
日ソ交渉に先立って、サンフランシスコ条約起草国である米国や、英国、フランスに対して、同条約中、放棄した千島の範囲について問い合わせをした[いつ?][誰?]。 米国は北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならないと国務省の覚書として明文化された公式見解を示し、日本の立場を支持している。 しかし、英・仏からは日本に好意的な回答は得られなかった。フランスからは、サンフランシスコ会議議事録において日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起するとの回答があった。 平和条約の締結交渉については、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島の「譲渡」で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、結局日ソ平和条約は締結されなかった。平和条約の締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ「共同宣言」で決着した。 日ソ共同宣言で日ソ間の外交関係が回復。日本とソ連は1956年12月7日、日ソ共同宣言の批准書を交換し、日ソ共同宣言は同日発効した。
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