1956年12月自由民主党総裁選挙
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1956年12月自由民主党総裁選挙(1956ねんじゆうみんしゅとうそうさいせんきょ)は、1956年(昭和31年)12月14日に行われた日本の自由民主党の党首である総裁の選挙である。
概要
1955年11月、自由党と日本民主党の合同(保守合同)によって誕生した自由民主党では、初代総裁を巡って、旧自由党の緒方竹虎総裁と旧民主党の鳩山一郎総裁の間で調整がつかず、移行期間として総裁代行委員制度をとっている間、1956年1月に緒方が死去。4月の初回の総裁選は鳩山の信任投票となって鳩山が当選した。同年11月2日、鳩山首相が日ソ共同宣言の妥結を成果として勇退を宣言したため、実質的に初めてとなる総裁公選が行われることになった。
当時、自民党は有力議員による派閥が8個あり、そのうち3派閥の領袖が立候補した。選挙戦開始時の構図は以下の通り。
| 岸信介系 | |
|---|---|
| 十日会(岸信介派) | 旧民主・親鳩山系 |
| 春秋会(河野一郎派) | 旧民主・親鳩山系 |
| 周山会(佐藤栄作派) | 旧自由・吉田直系 |
| 石橋湛山系 | |
| 火曜会(石橋湛山派) | 旧自由・反吉田系 |
| 政策研究会 (松村謙三・三木武夫派) |
旧民主・反鳩山系 |
| 石井光次郎系 | |
| 水曜会(石井光次郎派) | 旧自由・緒方直系 |
| 宏池会(池田勇人派) | 旧自由・吉田直系 |
| 中立 | |
| 睦政会(大野伴睦派) | 旧自由系 |
旧民主系は親鳩山の岸が立った一方、小派閥であった石橋のもとに、旧自由党の石田博英らが集ってこれを担ぎ、一大勢力になる。一方、旧自由系の中心であった緒方の直系である石井は、旧自由系をまとめきると有力候補であったが、大野が中立に回ってキャスティングボートを握ったうえに、緒方の前任者の吉田茂の直系で構成された池田派から、岸の実弟・佐藤らが岸の下にはしって分裂したほか、石田らが上述の石橋の下に流出したことで、三つ巴の構図になる[1]。
総裁選は、三候補いずれも過半数を得なかった場合は上位二候補による決選投票を行う規則であった。そのため、議員数で優位にあった岸系は石橋・石井両陣営からの切り崩しを行って一回目の投票での過半数を目指した。一方、石橋派の頭数を増やした参謀の石田は、旧自由党時代の盟友であった大野派の倉石忠雄と交渉[注釈 1]。石橋が大野に党務の全権をゆだねる意向を伝える。大野は、幹事長もしくは副総裁が確約されたと受け取り、石橋系につく[2]。
石橋・石井両陣営は、連合による一本化を行って岸に勝つべく、投票日前日の13日、両陣営の幹部会議が行われるが、両陣営とも自分が2位になることは確実だとして相手に辞退を求める激論が夜中まで続いた。14日朝になって、両者ともに立候補し、決選投票では3位の陣営が2位の候補に投票する、という、いわゆる「2位・3位連合」が成立した[2]。
かくして12月14日、第3回自民党大会で行われた総裁選は、第一回投票では予想通り岸が石橋に70票以上の差をつけて第一位となったが、過半数の票獲得には至らなかったため、岸と石橋間で決選投票となり、二、三位連合により石井支持者が石橋に投票したため、わずか7票差で石橋が総裁に当選した[3][4][5]。
- 後史
総裁選に勝利した石橋陣営であったが、人事を巡って難航する。特に第一回の投票で首位になりながら逆転された岸陣営の処遇が問題になった。岸は、石橋の組閣本部に対し、組閣方針が党内融和ならば自派にも相応の割り当てを求め、論功行賞ならば自派からは入閣しない、と通達して揺さぶりをかける。結局岸は要求通り外相に就任、岸系の党内野党化は避けられたが、あおりを受けて既定路線であった石井の副総理、大野の副総裁はともに反故になる。これを不満に思った両派は反主流派に回り、主流派は石橋、松村・三木、池田の三派体制となる。この三派から、石田が内閣官房長官、三木が幹事長、池田が蔵相として政権を支える体制がつくられる。早期の解散総選挙に踏み切ることでの政局の打開を目指したが、石橋の発病による内閣は短命に終わることとなった[6]。
-
投票箱前の岸
-
投票箱前の石井
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石橋は第2回投票で当選を決めた
選挙データ
総裁
投票日
- 1956年(昭和31年)12月14日
- 第3回党大会にて実施。
選挙制度
- 総裁公選規程に基づく公選
- 投票方法
- 秘密投票、単記投票、1票制
- 被選挙権
- 党所属国会議員
- 有権者[8]
-
517名
- 党所属衆議院議員:299
- 党所属参議院議員:126
- 地方代議員 :92
選挙活動
候補者
立候補制ではなかったものの、選挙活動した国会議員。
| 岸信介 | 石橋湛山 | 石井光次郎 |
| 衆議院議員 (3期・山口2区) 商工大臣(1941-1943) 党幹事長(1955-現職) |
衆議院議員 (4期・静岡2区) 通商産業大臣(1954-現職) |
衆議院議員 (4期・福岡3区) 商工大臣(1947) 党総務会長(1955-現職) |
| 十日会 (岸派) |
火曜会 (石橋派) |
水曜会 (石井派) |
| 山口県 | 静岡県 | 福岡県 |
選挙結果
第1回総裁選から1972年(昭和47年)の第12回総裁選までは立候補制ではなかったため、自民党所属の国会議員への票はすべて有効票として扱われた。
候補者別得票数
| 候補者 | 第1回投票 | 第2回投票 | ||
|---|---|---|---|---|
| 得票数 | 得票率 | 得票数 | 得票率 | |
| 石橋湛山 | 151 | 29.55% | 258 | 50.69% |
| 岸信介 | 223 | 43.64% | 251 | 49.31% |
| 石井光次郎 | 137 | 26.81% | ||
| 総計 | 511 | 100.0% | 509 | 100.0% |
| 有効投票数(有効率) | 511 | % | 509 | % |
| 無効票・白票数(無効率) | % | % | ||
| 投票者数(投票率) | % | % | ||
| 棄権者数(棄権率) | % | % | ||
| 有権者数 | 100.0% | 100.0% | ||
| 出典:朝日新聞 | ||||
備考
この選挙では、現金とポストの大盤振る舞いが行われ、後に自民党の政権運営が金権政治として批判される原型となったとされる。陣営がまいた金は、岸が3億円、石橋が1.5億円、石井が8千万円という証言がある。また、投票のために上京した地方代議員を各陣営が用意した宿所に缶詰めにして接待することも行われた。ポストに至っては、石田は農相の8名、通産相の5名を筆頭に大量に重複して確約しており、当然それらの大半は空手形となって、新政権の求心力を下げる要因となった[9]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 一七会編『われは傍流にあらず 政治改革に生涯をかけた三木武夫の軌跡 政治記者の記録』人間の科学社、1991年
- 宇治敏彦『首相列伝 伊藤博文から小泉純一郎まで』東京書籍、2001年。 ISBN 9784487795321。
- 内田健三『戦後日本の保守政治』岩波書店、1969年。
- 上前淳一郎『山より大きな猪 高度成長に挑んだ男たち』講談社、1986年。 ISBN 978-4-06-202657-4。
- 北岡伸一『20世紀の日本1 自民党 政権党の38年』読売新聞社、1995年、 ISBN 4643951060
- 小宮京『自由民主党の誕生 総裁公選と組織政党論』木鐸社、2010年、 ISBN 9784833224277
- 塩田潮『内閣総理大臣の日本経済』日本経済新聞出版社、2015年。 ISBN 978-4-532-16951-0。
- 竹内桂「三木武夫と石橋湛山:石橋内閣期を中心に」『自由思想141』2016年a
- 土生二三生『人間 池田勇人』講談社、1967年。
- 鈴村裕輔『政治家 石橋湛山-見識ある「アマチュア」の信念』中央公論新社〈中公選書〉、2023年。 ISBN 978-4121101419。
- 升味準之輔『現代政治 1955年以後 上』東京大学出版会、1985年2月20日。 ISBN 4-13-033026-8。
関連項目
外部リンク
- 1956年12月自由民主党総裁選挙のページへのリンク