キャスティングボート
キャスティング‐ボート【casting vote】
キャスティング・ボート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 05:28 UTC 版)
キャスティング・ボート(キャスティングボート、キャスチングボート、英:casting vote)
- 1 キャスティング・ボートとは
- 2 キャスティング・ボートの概要
キャスティング・ボート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:42 UTC 版)
「ヴァルター・シェール」の記事における「キャスティング・ボート」の解説
1961年の連邦議会選挙で成立した第4次アデナウアー内閣に、連邦政府の経済協力相として初入閣した。しかし翌年起きた「シュピーゲル事件」でアデナウアーに抗議して、他のFDP閣僚と共に辞任した。問題視されたフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス国防相をアデナウアーが更迭したため、12月に内閣に復帰した。アデナウアーに代わるエアハルト内閣でも引き続き入閣していたが、1966年に予算案をめぐりCDUとFDPが対立すると、他のFDP閣僚と共に辞職、エアハルト政権を崩壊させた。窮したCDUはSPDと大連立を組み、FDPは野党になった。1967年から連邦議会副議長(1969年まで)。1968年にFDP党首に就任。翌年自由主義インターナショナル副議長になった。 1969年の連邦議会選挙でSPDが躍進すると、キャスティング・ボートを握るFDPは、ヴィリー・ブラント率いるSPDと連立政権を樹立することで合意し、戦後初めてCDUを野党に引きずり下ろした。FDP党首であるシェールは、ブラント政権の副首相兼外相に就任した。1970年には西ドイツ外相として初めて、1965年に外交関係を樹立したばかりのイスラエルを訪問。また、シェールはブラント政権の「東方外交」の責任者として尽力し、ブラントと共に「デタントの父」と呼ばれた。ところが、東方外交はCDUに激しく攻撃され、シェールも防戦に努めたが、連立与党からの離党者が相次ぎ、ついに1972年の秋には内閣信任案が連邦議会で否決される事態となった。このため、ブラントはグスタフ・ハイネマン連邦大統領に連邦議会の解散を提案し、同年11月19日に総選挙を行った結果、SPD・FDPの連立与党がCDUに勝利し、ブラント政権はようやく安定を取り戻した。ブラント政権は総選挙の勝利を受け、同年12月21日東西ドイツ基本条約に署名し、西ドイツと東ドイツは、相互に主権国家として承認し合うこととなった。しかし1974年5月7日に、ブラントは「ギヨーム事件」の責任をとって辞任したため、シェールは次の首相が決まるまでその職を代行することとなった。
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