東方外交とは? わかりやすく解説

東方外交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/16 06:38 UTC 版)

東方外交(とうほうがいこう、: Ostpolitik)は、西ドイツの首相ヴィリー・ブラントによる、東ドイツを含む東欧諸国との関係正常化を目的とした、東側諸国に対する外交政策である。東方政策(とうほうせいさく)とも訳される。


  1. ^ 妹尾哲志「ブラント政権の東方政策と1972年のドイツ連邦議会選挙」『同志社政策研究』第5号、同志社大学政策学会、2011年、3頁、doi:10.14988/pa.2017.0000012375ISSN 18818625 
  2. ^ a b 妹尾哲志「ブラントの東方政策における西側との関係 : 対ソ交渉過程における米英仏との意見調整」『アゴラ : 天理大学地域文化研究センター紀要』第8巻、天理大学地域文化研究センター、2011年、41頁、ISSN 13489631 
  3. ^ 妹尾哲志「ブラント政権の東方政策と1972年のドイツ連邦議会選挙」『同志社政策研究』第5号、同志社大学政策学会、2011年、3-4頁、doi:10.14988/pa.2017.0000012375ISSN 18818625 


「東方外交」の続きの解説一覧

東方外交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:57 UTC 版)

旧ドイツ東部領土」の記事における「東方外交」の解説

ヴィリー・ブラント西ドイツ首相だった1970年代西ドイツ外交関係政策についてハルシュタイン原則捨て、「東方外交」を行なった西ドイツは「少なくとも当分の間ドイツ民族自決再統一に関する主張取り下げドイツ民主共和国東ドイツ)やオーデル・ナイセ線事実上存在承認した」。その後1970年から1973年にかけて、西ドイツ次々ソビエト連邦ソビエト・西ドイツ武力不行使条約)、ポーランドワルシャワ条約)、東ドイツ東西ドイツ基本条約)、チェコスロバキアプラハ条約)と友好条約を結び、それによって1970年代存在したヨーロッパ秩序順応した

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東方外交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:43 UTC 版)

ヴィリー・ブラント」の記事における「東方外交」の解説

ドイツ連邦共和国首相就任した直後1969年10月28日初めての施政方針演説ブラント東ドイツ国家として承認し対等立場で関係改善呼びかけるとともに東欧諸国との友好関係樹立向けて取り組んでいくことを明らかにした。ドイツ内に二つ国家があるとして「ドイツ民主共和国」と正式にその国名呼んで、しかし二つ国家住民は同じ民族として一体性があるから互いに外国ではいとして、一民族二国家と規定した。この時の演説にはそれまで首相触れていたドイツ再統一言葉触れられていなかった。これも従来施政方針演説には無かったことである。 ここから特使エゴン・バール交渉役にして東ドイツソ連始めとする共産主義諸国との関係改善推し進める「東方外交」が展開された。 1969年11月ブラント核不拡散条約調印して西ドイツ核武装する可能性対すワルシャワ条約加盟国懸念払拭した。そして翌12月からソビエト連邦との交渉入ったその間1970年3月エアフルト東ドイツヴィリー・シュトフ首相国家評議会副議長会談し、初の東西ドイツ首脳会談実現した会談では平和や東西共存向けた対立構造緩和するいくつかの提案行ったが、ショトフが歩み寄り見せことはなかった。この直前1970年1月東西ドイツ間で不可侵条約を結ぶことを提案した東ドイツはこれを拒否した。その理由はこの提案東西ドイツ相互承認入っていなかったことで、シュトフ首相との会談局面打開には至らなかった。これで西ドイツに近い東ドイツポーランドとの関係改善相互理解深めるにはまず東側リーダーであるソ連との合意形成がまず必要であると考え1970年1月28日ソ連グロムイコ外相との間で両国関係安定化のための予備交渉スタートさせた。 そしてソ連との交渉の場でソ連側出した要求概要は、まずヨーロッパ国境現状承認すること、東ドイツ国際法上承認すること、西ベルリン西ドイツから切り離すこと、ヒトラー時代ミュンヘン協定無効化であった1970年7月27日からはシェール外相グロムイコ外相との本格交渉始まりヨーロッパ国境現状承認は、将来東西ドイツの統一否定することにつながる恐れがあったが、現状国境不可侵であることを宣言するものの将来における東西ドイツの統一排除するものでないことが認められた。西ベルリン地位については1970年3月から始まった西ベルリン地位協定交渉の場で双方の主張配慮することとなった。他の二点は西ドイツ側も了解しており、1970年8月12日ブラント首相コスイギン首相との間で西ドイツソ連との国境不可侵武力不行使誓ったモスクワ条約調印された。この条約第1条で平和の維持緊張緩和実現第2条武力不行使第3条現存国境不可侵謳われた。このモスクワ条約は後に東方外交の総合建築とも称されて、まさにブラントの東方外交の枠組み為していた。 次に1970年12月ポーランドとの間で相互武力不行使オーデル川ナイセ川ポーランド西部国境とすることを定めたワルシャワ条約締結した。これで第二次大戦後に西ドイツ国内保守派から反対されてきたポーランド西部国境承認しそのほか一切領土についての返還請求権放棄した。この時12月7日首都ワルシャワユダヤ人ゲットー跡地訪ねユダヤ人犠牲者追悼碑の前で跪いて献花しナチス・ドイツ時代ユダヤ人虐殺について謝罪の意を表した。これによって旧ドイツ東部領の喪失確定した。しかしブラントにとって国内野党激し抵抗遭遇することになった

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