東方問題をめぐって
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「東方問題をめぐって」の解説
詳細は「東方問題」を参照 この頃のエジプトはオスマン=トルコ帝国総督ムハンマド・アリーの統治下に置かれていた。アリーはシリアの統治権を見返りにギリシャ独立戦争でトルコに海軍力を提供したが、同戦争に敗戦したトルコは、シリア総督職をアリーに渡そうとしなかった。これに不満を高めたアリーはシリアを武力でトルコから奪い取ることを企図するようになった。1831年10月からシリア支配権をめぐってエジプト・トルコ戦争が開戦し、エジプト軍が勝利した。 しかしトルコの領土は大英帝国にとって「インドの道」であり、失うわけにはいかなかった。またアリーは英国綿製品の輸入を制限するなどイギリスに敵対的な姿勢を示していたため、彼の覇権がシリアにまで拡大すれば、すでにトルコ領内に巨大市場を確立していた英国綿製品の脅威となる恐れがあった。 1831年の間はパーマストン子爵もベルギー独立問題への対応に忙しかったため、東方問題を捨て置いたが、1832年に入りトルコの敗色が濃厚になると介入を開始した。同じくロシア、オーストリア、フランスも介入を開始し、ロシアとオーストリアはトルコに、フランスはエジプトに好意的態度を取った(フランスは1830年にトルコからアルジェリアを奪取していたため、エジプトと連携を深めて足場を築こうとしていた)。 パーマストン子爵は、オーストリア宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒと会議の場所をロンドンにするかウィーンにするかをめぐって争い、その間の1833年7月にロシアとフランスの調停でトルコ・エジプト間に和平が成立。またロシアはトルコにウンキャル・スケレッシ条約を締結させ、ダーダネルス海峡進出を認めさせている。これはパーマストン子爵には手痛い外交失態だった。 その後しばらく東方問題はロシア優位のまま沈静化していたが、1838年5月にムハンマド・アリーがトルコからの独立を宣言し、トルコ皇帝マフムト2世が1839年4月にエジプト征伐を決定したことで問題が再燃した。同年6月にイブラーヒーム・パシャ率いるエジプト軍はニジプの戦いでトルコ軍に決定的な勝利を収めた。この敗戦で弱気になったトルコ皇帝はムハンマド・アリーのシリア総督就任を認めるに至った。 エジプトの増長を警戒したパーマストン子爵が再び介入した。今回はオーストリアのメッテルニヒの顔を潰さないようウィーンで会議を行うことに同意しつつ、実質的交渉をロンドンで行うことで東方問題を主導することとした。親エジプトのフランスを無視して、ロシア、オーストリア、プロイセン、トルコとともにロンドン条約を締結し、スーダン以外の占領地の放棄をムハンマド・アリーに要求した。 しかしアリーはフランスの支援を期待して強硬姿勢をとったため、パーマストン子爵は1840年9月にイギリス、オーストリア、トルコ連合軍をベイルートへ上陸させ、シリア駐屯のイブラーヒーム軍をエジプト本国と切り離した。アリーの期待に反してフランス軍は動かず、エジプト軍は総崩れとなって本国へ撤収していった。アレクサンドリア沖にも英国艦隊が出現するに及んでアリーもついに諦めてロンドン条約を受け入れることを表明した。 1841年2月13日のトルコ皇帝の詔勅によってエジプトとスーダンはトルコの宗主権下でムハンマド・アリー家が総督職を世襲して統治することが認められたが、一方で将官の任免や軍艦製造は宗主国トルコの許可が必要とされ、またイギリスと不平等条約を結んでの自由貿易も受け入れることとなった。
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