敗戦
敗戦
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「ガイウス・テレンティウス・ウァロ」の記事における「敗戦」の解説
前216年の執政官時代、カンナエの戦いでの敗北の後、敗残兵をカヌシウム(現カノーザ・ディ・プーリア)へ集結させ、カンナエでの敗北で同僚のパウッルスが戦死し、自分はカヌシウムで1万の敗残兵を集めたがまとめきれていないこと、カルタゴと捕虜の身代金や戦利品の交渉を行っていたことをローマへ伝えた。この悲報にローマでは大騒ぎとなり、元老院は混乱を拡大しないため喪に服する期間を30日に制限した。オスティアで艦隊を指揮していたプラエトルのマルクス・クラウディウス・マルケッルスがカヌシウムへ派遣され、敗残兵を引き継ぐと同時にウァッロに可及的速やかにローマへ帰還するよう命令が下された。カンナエで捕虜になった者たちの身代金は支払われない事が決定され、多くの同盟国がローマに反旗を翻したが、ウァッロが帰国すると、人々は彼に大敗の責任があることを知ってはいたものの、多くの人々が集まる広場で「共和国に望みを失っていない」として感謝の意をもって迎えられたという。 これまでの敗戦で元老院の人員不足が顕著となったため、新たな議員の選出が必要とされた。様々な意見が出たが、本来元老院議員の名簿改訂はケンソルの役目なため、現存する中で最も早くケンソルに就任した経験のあるものを独裁官として選出し、その任に当てることが決定された。独裁官の選出は執政官の役割なため、アプリアにいたウァッロが呼び戻され、彼はマルクス・ファビウス・ブテオを選出した。ブテオによって名簿が改訂されると、ウァッロは翌年の選挙管理を嫌って任地へ戻った。 翌紀元前215年、ウァッロはプロコンスルとしてインペリウムが延長され、引き続きアプリアを守備した。その後、プラエトルであったマルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスに軍を引き継ぎ、彼自身はアドリア海に面したピケヌムへと派遣され、紀元前213年までプロコンスルとしてその地を守備した。
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「第1高射師団 (ドイツ国防軍)」の記事における「敗戦」の解説
1945年4月半ば、第1高射師団は第2高射軍団(ドイツ語版)の指揮下に入った。師団本部は敗戦までベルリン動物園高射砲塔(英語版)に設置されていた。同高射砲塔が地上部隊への火力支援を指揮するために最も適した場所にあり、戦力も集中していたためである。1945年5月2日、防衛司令官ヘルムート・ヴァイトリング将軍のもと、ベルリンに展開する全てのドイツ軍部隊が降伏し、第1高射師団の残余は赤軍の捕虜となった。
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元亀元年(1570年)、再度肥前国に侵攻したが龍造寺隆信に今山の戦いで敗れ、弟の親貞が戦死した。ただしこの勝敗は大友・龍造寺氏双方にとって局地的な事象でしかなく、大友氏の肥前支配はこの時点では維持されていた。その後大友氏は肥前国や筑後国の反龍造寺勢力を扇動し支援することで対抗したが、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなかった。元亀4年(1574年)、京都では織田信長が将軍足利義昭との抗争に勝利し権力を確立し、義昭は京を追放され、天正4年(1576年)に山陽地方に下り毛利氏の庇護を受けた。 天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期、家督を長男の義統に譲って隠居した。家督は相続されたが、天正5年頃までは宗麟と義統との共同統治が行われていたことが確認されている。 下記の日向国出陣直前の天正6年(1578年)7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている。ただし本項文中は以降も著名な名乗りである「宗麟」で統一する。 改宗の理由として、宗麟の関心は信仰の内容ではなくかなりの程度、信者となることでもたらされる現世利益、すなわち実収入にあったと考えられている。またそれが宗麟個人のみならず、大友家中の人々にキリシタン信仰を広める上で有効な面もあったとされている。 天正5年(1577年)、薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始したため、大友氏はこれを迎え撃ち、宗麟も出陣した。天正6年(1578年)に耳川の戦いで大友氏は大敗し、多くの重臣を失った。 耳川の戦いが起こる切っ掛けとなった島津軍の日向国北上の理由として、京都で織田信長に敗れ毛利輝元の下に亡命していた足利義昭の影響を指摘する意見がある。将軍義昭は毛利氏が織田氏攻めのための上洛戦に踏み切らないのは、大友宗麟が毛利氏の背後を脅かしているからだと考え、島津氏をや龍造寺氏、四国の長宗我部氏らに工作を行い、大友氏を攻めさせようとした、とされる。義昭は宗麟を、将軍の上洛を妨害する「六ヶ国之凶徒」と糾弾したため、先に大友氏が足利幕府将軍に任命された六ヶ国守護としての権威が消失し、周辺の大小名に対する支配の正当性を失った形となった。一方で宗麟は織田政権に接近して、この苦境を打破しようとした。織田信長は大友義統に対し、六ヶ国のみならず周防・長門(毛利が大内から奪っていた国)の領有まで許可した。 天正7年(1579年)頃からは、蒲池氏・草野氏・黒木氏などの筑後国の諸勢力が大友氏の影響下から離れていった。家中では、先代の宗麟と当主の義統による二元政治の確執から、双方の対立が深まった。
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敗戦
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太平洋戦争末期、空襲警報や警戒警報は日常的な出来事と化していた。舎生は中庭に防空壕を掘り、空襲警報が鳴る度に逃げ込んだ。1944年12月、舎生は京都上空を通過するB-29の編隊を目撃したが、高射砲の音はなく、味方の戦闘機も見えなかった。 1945年8月15日の早朝、ある舎生が爆弾が落下する音を聞いて「すは原子爆弾か」と舎外に飛び出したところ、ポンポンと花火のような破裂音がして、空から宣伝ビラが降ってきた。そのビラには「本日は爆弾投下に来たのでは無い」「帝国政府がポツダム宣言を受託すべく交渉中であり、又連合国は天皇陛下を尊重する」「日本を亡ぼすのは軍閥なり」などと記されていた。憲兵隊が調べに来るかも知れないので、舎生たちは敷地に落ちたビラを拾い集めた。すると午前十時頃、正午に重大放送があることが分かった。 「何か胸騒ぎがした。ラジオは雑音の為、はっきりわからなかった。然し、今まで玉音は電波に乗せない事になってゐるのに陛下の御放送だといふので重大事だとは思った。然し、正直な所、国民に対する御激励の御放送であろうといふ予想が私の心中の七分を占め、残る三分が今朝の宣伝ビラと思い合わせて胸さはぎした。然し、胸さはぎの方があたったのだ。事実は事実なのだ。ラヂオはそう伝へたのだ。信じられなくても耳がさう聞いたのだ。次第に自分に帰った時、涙がにじみ出、流れ出して来た。あの勇ましい開戦の日の軍艦マーチ、敵は幾万ありとても、学徒出陣の日の絵の如き分列式。サイパン、沖縄、B29、原子爆弾、グルグルと、頭の中でうずまゐている。一体、俺は何処に居るんだといふような気持ちがする」(昭和二十年前期総務) しかし、何時までも茫然としていてもどうにもならないので、総務は玄関に以下の掲示を出した。「我等の生きるべき道は将来にありと信ず。血気にはやり、軽挙妄動をなさざる事、絶対に舎を離れざる事。総務」 敗戦直後、大半の舎生の関心事は「何故、戦いに負けたか」などではなく「敗戦国の民はどういう目に会ふか」「自分がどうかるか」ということだった。「京都に居ると生命があぶない」「敵軍が来たら大学生など先ず狙はれる」「殺されないにしても、強制労働位はやらされるだろう」等の悲観的な憶測が舎内で広がった。市中に横行するデマはさらにひどかった。恐怖にかられた舎生たちは舎内書類の一部を燃やしたり埋めたりした。
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敗戦
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1945年1月から赤軍はヴィスワ=オーデル攻勢を開始した。これを受けてヒトラーは、1月15日にベルリンの総統官邸に戻ったが有効な手は打てず、2月にはドイツ軍がオーデル川のほとりまで押し込まれた。同月にドイツ軍を作戦開始地点より東まで押し戻した米英軍は、3月にライン川を突破した(レマーゲン鉄橋)。またハンガリー戦線も危機的になり、領内の油田失陥の可能性が高まった。3月15日よりブダペストの奪還と油田の安全確保のため「春の目覚め作戦」を行うが、またしても無謀な命令を連発したために失敗し、ただでさえ消耗しきった戦力は更に減退した。ヒトラーは1月から総統地下壕で生活するようになり、3月頃からラジオ演説も止め、ほとんど庭に出ることもなくなった。視力や脚力も衰え、支え無しに30歩以上歩くことも困難になった。この頃になると利害が異なる各官庁からの意見調整もままならず、3週間の間に全く方針が異なる総統命令を出す有様であった。 3月19日、ヒトラーは連合軍に利用されうるドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう命ずる「ネロ指令」を発したが、戦後の国民生活に差し障ると軍需大臣のアルベルト・シュペーアに反対された。しかしヒトラーは「戦争に負ければ国民もおしまいだ。(中略)なぜなら我が国民は弱者であることが証明され、未来はより強力な東方国家(ソ連)に属するからだ。いずれにしろ優秀な人間はすでに死んでしまったから、この戦争の後に生き残るのは劣った人間だけだろう。」と述べ、国民を顧みることはなかった。結局シュペーアはこの命令を無視し、焦土作戦はほとんど実行されなかった。 4月16日、東部の最後の防衛戦を突破した赤軍はベルリンに向かった(ベルリンの戦い)。側近や高官はヒトラーに避難を勧めたが、彼は拒絶した。4月20日、56歳の誕生日を祝うために、軍とナチ党の高官が総統官邸に集まった。この日開催された軍事会議で、連合軍によってドイツが南北に分断された場合に備え、北部を海軍元帥カール・デーニッツが指揮することになったが、南部の指揮権は明示されなかった。また、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まり、ゲーリングら主要な幹部も立ち去っていった。この頃になると親衛隊すら信用できなくなり、「全員が私をあざむいた。誰も私に真実を話さなかった」と言うほどであった。 赤軍はベルリン市内に砲撃を加え、じりじりと迫ってきた。ヒトラーはなおもベルリンの門前で大打撃を与え、戦局が劇的に変わると言い続けていた。しかし4月22日の作戦会議で、ヒトラーはついに「戦争は負けだ」と語り、ベルリンで死ぬと宣言した。しかしその後は態度を変化させ、再び指揮を執り始めた。しかしこれを受けて4月23日には、総統地下壕を脱出したカール・コラー空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将の伝言を携えゲーリングの元を訪れる。ヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。ゲーリングは不仲であったボルマンの工作を疑い、総統地下壕に1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求めた電報を送る。電報を受け取ったボルマンは、「ゲーリングに反逆の意図がある」とヒトラーに告げた。これに激怒したヒトラーは、ゲーリングの逮捕と全官職からの解任、そして別荘への監禁を命じた。しかしシュペーアによると、この2時間後にヒトラーは「よろしい、ゲーリングに交渉をさせよう」とつぶやいたという。早期の降伏を考えていたシュペーアは、ゲーリングが降伏責任者となれば交渉で時間稼ぎをすると考え、飛行機に乗って連合軍と交渉しようとした際に備えて撃墜命令を出していた。
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1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は全面的なポツダム宣言受諾を連合国に伝達し、翌8月15日に昭和天皇の日本国民に向けた玉音放送を通じて日本が降伏する旨の『終戦に関する詔書』を発表した。これにより日本政府は、以下の義務を負うことになった。 無条件降伏の宣言 軍の武装を完全解除 植民地、占領地の放棄 連合国による占領の受け入れ 戦争犯罪人に対する処罰に応ずること
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敗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:25 UTC 版)
太原陸軍病院に入院中に敗戦を迎える。当時は、重大放送が行われるという指示を受け、病室で敗戦を伝える天皇のラジオ放送を聞く。病院は敗戦の報に際し大騒ぎとなったが、湯浅自身は、この事態を平静に受け止めた。 潞安陸軍病院が太原へ撤退してきたが、撤退時には衛生資材を焼却命令を受け、搬送できない重症患者を毒殺したという。潞安陸軍病院は、太原で防疫給水部に合流した為、湯浅は退院後、防疫給水部へ移った。実験を隠蔽するためか、生体解剖に深く関与した笠中尉ほか数名はすぐに北京へ転属となった。 防疫給水部に合流した陸軍病院で、内科病室付兼教育隊付軍医として勤務すると同時に大尉へ昇進する。山西省の日本軍内では、山西省に残留し、親日的な国民党や閻錫山に協力し、中国を強固とすることで、日本の米国支配を打開するとい運動が広がった。湯浅はこの運動の趣旨とは別に、山西省に残ることを決める。その理由は、中国人にも残留する日本人に医師が必要だと考えたからだった。 1945年12月24日、潞安陸軍病院は中国側に接収、部隊は北京に引き上げる。この機会に湯浅は離隊し、山西共済病院へ移籍した。同病院は、中国側の管理下にあったものの、日本人居留民の為に須藤医師が経営していた。正式の医師3名、現地採用の医師3名、看護婦は日中合せて10名程度の規模だった。
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「敗戦」の例文・使い方・用例・文例
- 敗戦投手
- 彼は強烈な軍国主義者で日本の敗戦を信じなかった。
- 敗戦のうわさが広まった。
- 戦勝国は敗戦国に講和条件を指令した。
- それまで日本は敗戦というものを知らなかった.
- 敗戦後, 日本は廃墟の中から不死鳥のようによみがえった.
- 戦後、敗戦国は、再軍備は許されなかった
- 敗戦を認める
- 敗戦
- 戦争の後、敗戦国は勝者により再軍備されなかった
- (敗戦国などで)軍隊が作った政府の長
- 勝者によって敗戦国にきびしく要求される補償
- 戦勝国が敗戦国から取り立てる賠償
- (敗戦の兵が)散りぢりに逃げる
- (敗戦前)日本の支配下にあった地
- 野球で,敗戦に最も責任のあった投手
- 敗戦の恥辱
- 野球で,ある試合で,チームの敗戦に最も責任のあった投手
- 敗戦者の捕虜の命を助けること
- シャラポワ選手は「特につらい敗戦を何度かした後だけに,グランドスラムで勝てたこと,これまでに勝ったことのない大会で勝てたことに満足しています。」と後に語った。
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