敗戦とソ連軍の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 04:26 UTC 版)
昭和20年(1945年)4月、牡丹江郵政管理局に転勤となるが戦局は悪化し、8月9日、ソビエト連邦は日ソ不可侵条約を破って日本への侵攻を開始。ソ連軍の空襲に続き、ソ満国境付近の各郵便局から「ソビエト軍侵攻」の報が続々と届く。牡丹江中央郵便局の小林局長より「局員家族の日本引き揚げ策」を指示される。8月15日、玉音を拝し終戦。福島局長より「局員家族の日本引き揚げ策」の具体的な指示を得る。満鉄と交渉して客車2両を提供してもらい、満洲中央銀行牡丹江支店から管理局の預金を下ろし資金を得る。牡丹江脱出前夜、 (引き揚げに際し)乗る汽車は同じだが、私は局員家族全員の命を守る責任がある。家族だからといってお前のそばにくっついている訳にはいかない。今からは夫婦ではないという気持ちでこれが別れだと覚悟してくれ。 — 立石賢治 と言って妻と水盃を交わす。哈爾浜まで来ると「ソビエト軍によって線路が爆破され不通」との情報が入り一同自決の覚悟を決めるが、誤報であったことが分かる。8月17日、ソビエト軍が市内に乱入し略奪、暴行が激化。朝鮮半島を縦断しての脱出も難しくなり、新京市で牡丹江から持参した資金を避難局員家族に分配し集団での脱出を中止した。
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