敗戦――上官の豹変
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1945年(昭和20年)8月15日、日本軍の降伏により終戦の詔書(玉音放送)が昭和天皇よりなされた。しかし不敗を誇る士気旺盛な熊本歩兵部隊は、もしも連合軍により天皇に戦争責任が負わされる場合を危惧し、軍独自の行動として板垣征四郎大将をいただき最後の一兵まで抗戦すべしと意気に燃えていた。 青年将校らの計画は極秘に鳥越大尉により抵抗部隊が編成されつつあった。善明はその抵抗部隊の大隊長に擬せられていた。この不穏な動きを察知した中条豊馬大佐は、抵抗部隊編成を制するため、下士官以上を本部の奥にある山上の新王宮に集め、8月18日に軍旗告別式を決行し、訓示をした。鳥越春時大尉の記憶によると、「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」という。 中条豊馬大佐の軍人らしからぬ、あまりの豹変と変節ぶりに多くの青年将校らは憤ったが、中でも蓮田の激昂は凄まじく、その集会の直後にくずれて膝を床につき、両腕で大隊長・秋岡隆穂大尉の足を抱いて、「大尉長殿! 無念であります」と哭泣した。その上、中条大佐の日頃の言動には不審な所が多かったため、蓮田は中条大佐を国賊と判断した。 蓮田の上官の鳥越大尉は前から、中条大佐へ来る郵便物が「金」某という宛名で来ることを不審に思っていた。しかも中条大佐の出身地が対馬であったことから、朝鮮から渡って来て中条家の養子になった人物ではないかと推理していた。また、中条には日頃からスパイ容疑を受ける言動もあり、側近の者ほど遠ざけ、前線の視察も日本軍隊は相手にせず、もっぱら現地人出迎者の応対に慇懃であったという。 なお、この中条朝鮮人説に関しては、松本健一による遺族への直接取材によれば、中条豊馬は中条家の養子だったのは事実であるが、元の姓は「金」ではなく、「陳」であるという。養子になる以前の名は「陳豊馬」で、大分県宇佐郡(現・宇佐市)高家村の出身であり、朝鮮の出身ではない。
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