敗戦とジロンド派の失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:10 UTC 版)
「フランス革命」の記事における「敗戦とジロンド派の失脚」の解説
1793年3月になるとフランスは敗戦に転じ、ヨーロッパの強国から侵略された。原因は御用商人の悪徳行為で軍隊の食糧事情と待遇が悪くなり、士気が低下し、義勇兵が減少したことと、初期の戦勝に気を良くしたフランス革命政府が次第に征服と膨張政策に傾き、一種の世界革命的なイデオロギーで正当化してフランスの敵が増えたことにあった。 アシニアの価値が下落し、物価高騰が起こり、貧民の暴動を誘発した。しかしこれを力で弾圧するとヨーロッパ列強との戦争に、献身的な民衆を動員することができない。物価高騰を止めるためにはアシニアの価値を維持し、増発されたアシニアを流通から引き上げねばならない。このための政策として貴金属売買の禁止、アシニアの強制流通、アシニアと競合する手形・株などの証券の取引禁止、累進強制公債(革命税)などの政策が議論された。累進強制公債には金持ちが反対し、ジロンド派はこれらの政策に抵抗したが、平原派はだいたい賛成した。ジロンド派は食料品・嗜好品を中心とした貿易商人や問屋商人が多く、国家との取引でもうけるすべがないまま、巨額の革命税を取り立てられたため反乱を起こした。平原派は工業家や軍需物資を扱う商人が多く、外国との戦争で国家の軍事注文を受けて莫大な儲けを得た資本家が背後にいた。彼らは一時的な犠牲を払っても戦争に勝ってほしいと考えた。 ジロンド派は平原派の支持を失って、次第に山岳派に押されていき権力の座から後退していった。ジロンド派は累進強制公債の採決に敗れると、徹底的な反抗を組織した。それに対して山岳派とジャコバンクラブが過激派と手を組み、5月31日と6月2日に武装したパリ市民が国民公会を包囲し、ジロンド派議員は逮捕された。1793年10月3日に21人のジロンド派議員が処刑され、10月16日には王妃マリー・アントワネットも処刑された。
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