敗戦と復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 09:33 UTC 版)
弘治2年(1556年)9月5日、龍造寺軍は多勢で山内へ攻め込む。勝利は猛攻を支えきれず、筑前国の原田隆種の元に落ち延びた。しかし、永禄元年(1558年:弘治3年説あり)山内復帰の軍を起こし、1月1日の払暁に自身の旧領に置かれていた龍造寺家の代官を攻撃、元日という事で油断していた敵勢を討ち取り三瀬城を奪還、山内復帰を果たす。この時、三瀬城のある山内の人々は勝利の復帰を大変喜んだという。同年9月、春日山城を攻め、その城兵を多数討ち取る。春日山城には小河信安の一族が入っており、信安は一族の仇を奉ずるべく10月15日に春日山へ出陣していたのであるが、翌日に自ら斥候となっていた勝利と、一人先行していた信安が偶然山中で出逢い一騎討ちとなると、勝利は信安を討ち取るに至った。その後、信安を追って来た小河勢および隆信の佐嘉勢と鉄布峠で交戦、勝利近習で薩摩国の伊集院氏の一族である伊集院阿含坊(福島阿含坊とも)の鉄砲による活躍もあり、石井兼清らを討ち取って勝利は隆信勢に大勝した。 同年11月、龍造寺家は勝利および江上武種の意を挫くべく、その当主たる少弐氏殲滅を企図する。勝利は小田政光と戦い、これを討ち取った。しかし小田勢の猛攻により損耗甚だしく、止む無く三瀬城へ退いた。その間に龍造寺勢は少弐家の勢福寺城を攻囲、12月3日に一旦和睦に至るも、翌年に再び攻められ冬尚は自害した。
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