敗戦と復帰、再び
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 09:33 UTC 版)
永禄4年(1561年)9月、隆信は勝利に対して、河上の地にて雌雄を決しようとの挑戦状を送りつける。勝利はこれを容れ、9月13日に7,000騎を率いて出陣したが、裏切者が出て三男・周利が刺殺され、その陣が瓦解した。これにより危難に陥った次男・種良が討ち死に、長男・長良を逃すべく奮戦した江原石見守も捕えられて処されるなど味方が悉く討ち負け、勝利は妻子と共に波佐見へ逃れて浪人する(川上峡合戦)。だが、山内に残った家臣・中村壱岐守の手引きで再び山内に復帰を果たす。永禄5年(1562年)、納富信景の仲介により、長良の娘と隆信の三男家信の婚儀を約して和睦、勝利は畑瀬の山中に城を構え隠棲、その3年後に膈(胃の周辺)の病を得て死去。 勝利死去からすぐの同年4月、長良の二人の子が疱瘡を患い病死したのであるが、神代氏の度重なる不幸を知った隆信は、これを好機と千布城を攻め長良らを追い落す。長良は大友氏に属して度々隆信と対立した後、元亀2年(1571年)に龍造寺家臣となると、小河信俊の息子の家良を養子とし、以後子孫は川久保鍋島氏として幕末を迎えた。小河信俊は鍋島直茂の弟と言われる。
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