敗戦に対するフランスの対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
「普仏戦争」の記事における「敗戦に対するフランスの対応」の解説
国防政府の下で実施された国民議会選挙の結果、きわめて保守的な政府が出来上がった。当時の政治風潮により、パリに首都を設置するには危険過ぎたため、国民議会により選出されたアドルフ・ティエール大統領の下で、政府はヴェルサイユに設置された。この新政府は主に保守的な中流階級の地方政治家で構成されており、パリ市民を激怒させる様々な法律を通過させた。たとえば、異論の多かった「満期法」では、1870年9月以降延期されてきたパリ市内の賃料と、1870年11月以降支払い猶予されてきたフランス全国の全ての公債は、48時間以内に全額利息付きで返済せねばならないと命じた。パリは不相応に巨額の賠償金をプロイセンに支払う重荷を背負っているため、パリ市民は程なくしてヴェルサイユ政府に憤慨するようになった。パリは革命主義的な国民衛兵と、市内の幾らかの正規兵で防衛されている中、左翼のリーダーたちはパリ市庁舎(オテル・ド・ヴィル)に拠点を構えてパリ・コミューンを設置した。ヴェルサイユ政府はパリ・コミューンを鎮圧し、2万人の死者が出て、パリ市街の一部が焼失した。 フランスの小説家ギ・ド・モーパッサンは当時20歳で国民遊撃隊員だった。彼は後にこの戦争を題材にした小説『脂肪の塊』を発表する。 フランクフルト講和条約は、ドイツにストラスブール、メス要塞を渡す事に加え、アルザスおよびロレーヌ北部(モゼル県)をドイツ領土とし、両方(特にアルザス)ともにドイツ系住民が多数派の地域で、フランスの鉄鉱山の80%と機械工場群を含んでいた。この地域を失った事は、フランスの怨恨の源泉としてあり続け、第一次世界大戦に際してアルザス=ロレーヌを奪還するかどうかの国民投票を行ったフランスでは国民の支持につながった。こうした「Revanchism」(復讐主義)がドイツとフランスの間の緊張を永続的なものとし、それも第一次世界大戦に寄与した要因の一つとなった。 戦後、地方で戦争記念を行う動きが広がった。戦争で亡くなった人々を偲んで戦争記念碑がフランス各地に建立された。マルス・ラ・トゥール(Mars-la-Tour)、バゼイユ(Bazeilles)、ベルフォール(Belfort)の戦争記念碑が著名である。 1890年代、この戦争の影響から発展してドレフュス事件が起こった。フランスの軍事防諜機関の情報員によって、パリのドイツ大使館のゴミ箱の中からフランスの軍事機密が発見され、アルザス生まれでユダヤ人のフランス軍大尉アルフレド・ドレフュスがこの事件の犯人に仕立て上げられ、反逆罪により終身禁固刑を宣告された。彼は最終的に無実を晴らして1900年に釈放された。
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