敗戦までの経緯とは? わかりやすく解説

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敗戦までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:41 UTC 版)

ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「敗戦までの経緯」の解説

1904年2月9日深夜日本宣戦布告なしで旅順ロシア艦隊攻撃加えたことで日露戦争開戦した。アレクセーエフ提督からこの報告受けたニコライ2世は「宣戦布告なしだと!神よ我ら助けたまえ」と述べたという。 だがニコライ予想とは裏腹に戦況思わしくなく、日本艦隊早々に旅順ロシア艦隊ウラジオストク追って制海権獲得5月にはロシア陸軍鴨緑江敗北し奉天まで後退余儀なくされた。ロシア軍増援部隊アレクセイ・クロパトキン将軍指揮のもと日本軍包囲される旅順解放しようとしたが、失敗し双方多大な犠牲出したすえ1905年1月旅順陥落。さらに日本軍奉天ロシア軍にも攻撃開始しロシア軍は何とか陸軍主力温存したもの奉天からの退却余儀なくされた。ニコライ2世最後の希望だったバルチック艦隊も、ようやく極東到着したばかりの5月2728日行われた日本海海戦において、ほぼ一方的に殲滅されてしまった。 ロシア敗因はいくつかあるが、まず日本の方が戦闘地域に近いため、ヨーロッパロシアよりも迅速に動員補給ができたことがある開戦当初ロシア軍29軍団のうち極東にいたのは2個軍団だけであり、他の部隊戦闘地域到着するまで数カ月かかったシベリア鉄道単線だったためである。またロシア側は相次ぐ敗戦指揮系統混乱見られた。極東総督として極東ロシア陸海軍双方指揮権を持つアレクセーエフ提督陸軍トップであるアレクセイ・クロパトキン将軍折り合い悪く、アレクセーエフが攻勢志向なのに対してクロパトキン後退再編成志向だった。またアレクセーエフ解任後もクロパトキングリッペンベルク将軍確執があった。こうして相矛盾する命令を受けることになったロシア軍現地部隊混乱し、これが日本軍有利に働いた海戦でもロシア極東艦隊は数の上では日本艦隊匹敵したが、まともな基地修理施設がなかったうえ、ステパン・マカロフ提督旗艦ペトロパブロフスク」が機雷にかかるなど様々な不運に見舞われ最終的に日本完敗した。 そしてもう一つは、国内蔓延していた革命機運であった日露戦争勃発当初ロシア国内でも左右問わず愛国ムード高揚したが、小国日本相手しながら敗北が続くなかで、国内での亀裂が再び深まった学生運動行っていた大学生らは軍に入隊させられるアジテーター化して部隊士気低下させようとしたほか、鉄道員にも心理工作仕掛けてロシア帝国生命線である軍の極東移動妨害図った

※この「敗戦までの経緯」の解説は、「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の解説の一部です。
「敗戦までの経緯」を含む「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事については、「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の概要を参照ください。

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