敗戦まで
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1937年(昭和12年)11月、雪博士として知られる物理学者の中谷宇吉郎が以下のように述べている。 原子の蔵する勢力(エネルギー)は殆(ほと)んど全部原子核の中にあって、最近の物理学は原子核崩壊の研究にその主流が向いている。原子核内の勢力が兵器に利用される日が来ないほうが人類のためには望ましいのであるが、もし或(あ)る一国でそれが実現されたら、それこそ弓と鉄砲どころの騒ぎではなくなるであろう。 — 中谷宇吉郎「弓と鉄砲」『東京朝日』1937年11月 日本において原爆が具体的に語られたのは1940年(昭和15年)に仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長にウラン爆弾の研究を進言したのが始まりとの説もある。[要出典]以後、陸軍は1941年(昭和16年)に理化学研究所に原子爆弾の研究を委託(ニ号研究)、海軍は1942年(昭和17年)に核物理応用研究委員会を設けて原爆の可能性を検討した。しかし、当時は人形峠(岡山県・鳥取県境)のウラン鉱脈の存在も知られておらず、ウラン鉱石の入手はもっぱらナチス・ドイツとの遣独潜水艦に頼る状況にあり、ウラン爆弾1個に必要な2トンのウラン鉱石を確保するのは絶望的であった。 1945年(昭和20年)6月には陸軍が、7月には海軍が研究を打ち切り、日本は敗戦を待たずして原爆研究から撤退した。
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敗戦まで
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かつ子は福岡県田川郡安真木村(現在の川崎町)の出身で、地元の長者の伊藤万太郎の娘として生まれる。幼少時から向学心が強かった。小倉高等女学校(現:福岡県立小倉西高等学校)在学中は、小倉の万徳寺(英機の母・千歳の実家。伊藤家の遠縁でもあった。)に下宿していた。小倉高女を卒業すると、明治時代の女性にとっての最高レベルの教育を受けるべく、1906年(明治39年)に、日本女子大学校(現:日本女子大学)国文科に入学のため上京。保証人は英機の父・英教であり、かつ子は東條家をたびたび訪問した。 日本女子大の3年生になったかつ子は、1909年(明治42年)4月11日、当時陸軍歩兵中尉だった英機と学生結婚した。「結婚は、日本女子大を卒業した後」と考えていたかつ子は英機との縁談をいったんは断ったが、姑となる千歳から「結婚後も日本女子大への通学を認める」という条件を提示されて結婚を承諾したものであった。しかし結婚後に「学問のある女」を嫌う姑の千歳から「毎日朝5時に起きて、13人が暮らす東條家の膨大な家事を全て終わらせない限り、登校させない」という苛めに遭い、わずか1か月半で中退に追い込まれた。 千歳はヒステリックな性格で、東條家の皆が腫れ物に触る思いで接していたという。 日本女子大を中退した後も続いた、かつ子に対する千歳の苛めは、後年のかつ子が 「私もすぐには戸籍に入れてもらえず、どうしてこれだけ苛められるのか分からないと思うほど、痛めつけられました。」 と回想するほど凄まじいものであった。
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