1937年11月
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「トラウトマン和平工作」の記事における「1937年11月」の解説
11月03日、クレーギーイギリス大使より堀内次官のところへ九ヵ国条約会議に関する重要な情報がもたらされた。それは会議に臨む諸国の基本姿勢を伝えたものである。大使は本国政府に対し、ブリュッセル会議においては 1.対日制裁は論議すべからず。 2.来だ適当の時期にあらざるを以て即時調停又は斡旋を決すべからず。 3.此の際東亜に特殊の利害関係あるに、三国より成る小委員会を設置して日支問題に関し連絡を保持せしめ適当の時期を俟ち一国又は数国にて斡旋をなす途を開き置くべく要するに此の際将来に於ける単独の斡旋の途を全然閉塞せざること最も肝要なる。 旨の意見を上申。 したのである。しかも、「右意見ハ当地ニテ米、仏、白三国大使ニモ之ヲ内諾シタルニ何レモ賛成シ三国大使ヨリ夫々本国政府へ上申セル次第ニシテ武府会議ニ対シ相当効果アルモノト思考ス」とも言っている。すなわち、イギリス側は、集団力による対日制裁の方向を否定し、日本が力をいれている第三国仲介を通しての対中国直接交渉の方向に同調したのである。これは日本が推進している「トラウトマン工作」に一気に拍車を駆ける結果となったのである。 第二次上海事変で、蔣介石はドイツ式の精鋭部隊をすべて失った。一方、広田はいわゆる第1条件を提示した。そして同時に広田は戦争が継続される場合には、この条件ははるかに加重されるであろうと強調した。 実は7月29日の閣議で承認されたもので、開戦前の事態収拾案である。参謀本部はこの戦争を局地戦と考えていた。戦果による条件の改変を考えていなかったし外交に属することは関与を避けた。ただこの時参謀本部の情報部はかなり正確に国民革命軍(国府軍)の暗号を解読していたとみられ、国民党政府内部の情況についてよく把握していた。蔣介石が日本側の和平提案やブリュッセル会議へ関心をもったため国府軍の全面退却はやや遅巡しており結果としての混乱を歓迎する面もあった。 11月上旬に広田から日本の和平条件7項目をディルクセン駐日ドイツ大使が接受し、ベルリンのアドルフ・ヒトラーの諒承を得て、トラウトマン大使が王寵恵外交部長に日本の意向を伝えたが、王は蔣介石の意見として、『中国は国際連盟に提訴してあり、九カ国条約の関係国がブリュッセルで会議中なので、その結果を見るまでは、日本の条件を考応すべきではない』との返事をした。11月2日に広田は第1条件をディルクセンに手渡し、11月3日にディルクセンはドイツ外務省に会談の模様を報告し、「日本は確かに以上のような条件を基礎とした和平を希望している。もし南京政府がこれらの条件を受け入れなければ、日本は、中国の最後の崩壊まで無情にも戦争を続ける決心である。私の意見では、これらの条件は極めて穏健であり、南京が面子を失わずにこれらの条件を受け入れることができよう。われわれは現在、これらの条件を受諾するよう南京に圧力を加える必要があろう」と述べた。ドイツ外務省も日本側の示した条件は交渉開始の基礎として妥当なものと判断し、同日トラウトマン大使宛てにこれを中国側に伝えるよう訓令した。11月5日に蔣介石は第1条件を入手した。 1.外蒙と同じ国際的地位を持つ内蒙自治政府の樹立。 2.華北に、満州国境より天津、北京にわたる非武装地帯を設定、中国警察隊が治安維持。ただちに和平が成立するときは華北の全行政権は南京政府に委ねられるが、日本としては長官には親日的人物を希望する。もし直ちに和平が成立しない場合は新しい行政機関を設ける必要がある。この新機関は平和が結ばれた後にもその機能を継続する(ただし今日までのところ日本側には華北新政権を設立する意向はない。)。 3.上海に非武装地帯を拡大し、国際警察により管理する。 4.排日政策の停止。 5.中ソ不可侵条約と矛盾しない形での共同防共。 6.日本製品に対する関税引き下げ。 7.中国における外国人の権利の尊重。 上記の条件では満州国の正式承認は要求していない。 11月6日、トラウトマンは、孔祥熙実業部長だけが列席している場で蔣介石に日本側の意向を伝えた。蔣介石は、現在これに応じられないと回答した。蔣介石は第一次案がトラウトマンより示された時にこう述べた、「日本側が事変前の状態に復帰するのでない限り、どんな要求も受諾できない」、「もし自分がこの(日本側の)条件を受諾したら、わが政府は世論の大浪に押し流されてしまうだろう。…日本のやり方でわが政府が倒されれば、共産主義政権が誕生するだろうが、その結果は日本にとって和平の機会の消滅である。共産主義者は決して降伏しないだろうからである」と極秘に述べた。一部分の条件については討議し、友好なる諒解を求めることもできるが、これらはすべて事変前の状態に回復することを前提としなければならない」と強い口調で返答したのである。蔣介石が事変前の状態回復を強く主張したのは、彼自身の説明によれば、もし、日本側の要求を受諾すれば、中国政府は世論によって押しつぶされ、中国に革命が起こるだろうという判断による。中国は抵抗によって勝利をかち取る可能性はないが、中国政府の崩壊は共産党が中国で優位を占めること、すなわち、日本と中国の講和は永遠に不可能である、ということになる。それでは、中国側が言う事変前の状態とは具体的にどういう内容だったのだろうか。石射局長の記録によれば、ディルクセン大使から次のような中国側の和平解決条件がもたらされた。 1.北支 北支の主権領土及行政の完整を確保し得れは経済開発、及資源の供給に関し相当の譲歩をなす。各国駐兵権を全部放棄せしむれは最も可なるも、然らされは日本の駐兵は義和団条約規定の地域とし、兵カは列国との振合に応し別に条約を以て定む。 2.上海 (a)8月13日以前の原状に復す (b)上海停戦協定所定の地域内に於て、武装団体防御施設禁止に関するか如き事項は国際協定を以て規定す。日本及列国の上海に於ける駐兵及軍事施設は租界守備区誠に必要なる最小限度に減し、其兵かは現共同委員会又は別の委員会に於て研究決定す、右有効期限を当分5年とす。 (c)前項区域は略現停戦協定区域とし之を著しく拡張するは不可なり。 これを概観するとわかるように、中国の最大の関心は、華北における中央の主権と日本の駐兵に開する制限を実現することであった。 蔣介石は、開催中のブリュッセル会議において、なんらかの形で対日制裁が決議されるものと期待していたので回答を留保した。その他に、国民政府はソ連の対日参戦の交渉を行っており、その回答を待っていたことも回答を留保した理由の1つである。 上海陥落の前日の11月11日、蔣介石は首都南京で、南京を放棄するか、死守するか、李宗仁、白崇禧、何応欽、唐生智、徐永昌、ドイツの軍事顧問団団長のアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンといった将軍らと善後策を諮っていた。李宗仁は「私は南京防守に反対である。その理由は戦術上、南京は他と隔絶しており、敵は三方から包囲可能で、しかも北面は長江によって退路が阻まれている。今、挫折敗北を喫した部隊を孤城の防衛に配置しても、長く守ることは望みがたい」と述べた。ドイツ人顧問もこれに賛成し、無用の犠牲は生まぬよう、南京放棄を「極力主張」した。このように南京放棄論が大勢を占めていたが、突如、唐生智が南京死守を力説する。そこで、蔣介石は、「わが血肉をもって南京城と生死を共にする」と誓う唐生智を南京防衛軍司令官に任命し、南京死守を決定した。しかし、唐は後に徹底抗戦を叫びながら降伏の手続きをせずに逃亡してしまう。 だが日本はなお和平への望みをあきらめず、ブリュッセル会議最終日の11月15日、広田はアメリカのグルー大使に「日本軍の上海での作戦は順調だがこれ以上支那軍を追撃する必要はない。この時期に平和解決を図るのは支那自身のためになり、支那政府が南京を放棄するのは非常に愚かなことだ」等を述べ、現在ならば日本の講和条件は穏当なものであるので、アメリカが蔣介石に対し和平交渉に応ずうよう説得してほしいと希望し、もし支那側に和平の意思があるなら、日本は代表者を上海に派遣しようとまで語った。 蔣介石は大場鎮(上海近郊)陥落をもって敗北とみなす軍事顧問ファルケンハウゼンの進言を容れず、また英米などの干渉により日本が国府軍の殲滅に乗り出さず、戦線を維持できると観測した。広田への回答はせず引き延ばしを図った。 首都南京からの撤退に蔣介石が反対し、固守方針を定めた。11月20日の重慶への「遷都宣言」で蔣介石は「盧溝橋事件発生以来…日本の侵略は止まる事を知らず…各地の将士は奮って国難に赴き…死すとも退かず…日本は更に暴威を揮い…わが首都に迫る…およそ血気ある者で瓦全より玉砕を欲せざる者はない。…」と述べ、戦争に固執した。 壊走した国府軍への日本軍の網は締まりつつあった。国民党政府要人誰もが11月中旬には破滅的な事態となりつつあることを認識し始めた。11月28日から蔣介石は第1条件受諾の根回しを開始した。12月2日午後4時の南京にて、蔣介石は徐永昌、唐生智、白崇禧、顧祝同、銭大鈞らを招集し日本側の条件についての意見を求めた。 和平条件に「華北の全行政権は南京政府に委ねる」が記載されているため、白崇禧は「こんな条件ならなぜ戦争するのか」、徐永昌は「これだけの条件なら承認してよい」と述べた。顧祝同は受諾に賛成、最後に唐生智が「みなが賛成なら賛成でいい」といったという。最後に蔣介石は「ドイツの調停は拒否すべきでない」「華北の政権は保持しなければならない」と言明した。
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