1937年10月
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「トラウトマン和平工作」の記事における「1937年10月」の解説
戦局が激しくなる中、日本は1937年(昭和12年)10月1日に「支那事変対処要綱」を四相決定(総理、外務、陸軍、海軍)し、停戦条件と国交調整方針を策定した。10月下旬、九カ国条約関係国会議(ブリュッセル会議)の対日招請状が届くと、日本は不参加を決定したが、同時に「軍事行動の目的がほぼ達成された時期には第三国の公正な和平斡旋を受理する」方針を外務省・陸軍省・海軍省との間で三省決定した。陸軍参謀本部に所属していた石原莞爾少将の第一部長離任転出直前、第二部の馬奈木敬信中佐が「今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリンで補佐官をしていた時代の友人である」と言ったので、石原は「それは願ってもない。すぐ支那に行ってトラウトマンと会い、日支和平工作の手がかりを作ってくれ」と、馬奈木を上海に行かせた。この後、石原は第一部長を離任、満州国の関東軍へ転出した。日本政府と軍部の首脳は早急に戦争を終えたいとの気持ちから、第三国の公正な斡旋の申し出があった場合は船津和平工作案の範囲内で受諾するとの方針を外務省と陸海軍三者間で決め、広田弘毅外相より10月27日、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアに対して、日支交渉のための第三国の好意的斡旋を受諾する用意のあることを伝えた。広田の真の狙いはドイツの仲介による和平の斡旋で、特にディルクゼン駐日ドイツ大使に依頼した。 10月30日、トラウトマンは、国民政府外交部次長陳介を訪問し、ドイツはコミュニケーションのチャンネルとして奉仕する用意があることを伝えた。陳介は、蔣介石元帥が日本の条件は何であるかを知りたがっていると述べた。トラウトマンは現時点でまだ日本の条件をはっきり掴んでいないため、「私が数日中に元帥と会談することを望んでいる」と答えることに留まった。だが、国民政府に次の二点を伝えるように勧めた。すなわち、「我々が日本へのコミュニケーションのチャンネルとして奉仕する意志を持っていること、そして、私が日本政府に対し、先ず、中国が和解の用意があるとだけ伝える権限を与えられていること」であった。なにゆえに蔣介石が講和を受け入れようとしたのだろうか。実は馬奈木とオットーが上海に到着したころ、10月25日、国民政府国防会議が「停戦問題」を議題に秘密会議を開催している。
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