1937年10月とは? わかりやすく解説

1937年10月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:33 UTC 版)

トラウトマン和平工作」の記事における「1937年10月」の解説

戦局激しくなる中、日本1937年昭和12年10月1日に「支那事変対処要綱」を四相決定総理外務陸軍海軍)し、停戦条件国交調整方針策定した10月下旬九カ国条約関係国会議ブリュッセル会議)の対日招請状が届くと、日本不参加決定したが、同時に軍事行動目的がほぼ達成され時期には第三国公正な和平斡旋受理する方針外務省陸軍省海軍省との間で三省決定した陸軍参謀本部所属していた石原莞爾少将第一部長離転出直前第二部馬奈木敬信中佐が「今度支那大使着任したトラウトマンベルリン補佐官をしていた時代友人である」と言ったので、石原は「それは願ってもない。すぐ支那行ってトラウトマン会い日支和平工作の手がかりを作ってくれ」と、馬奈木を上海に行かせた。この後石原第一部長を離任満州国関東軍転出した日本政府軍部首脳早急に戦争終えたいとの気持ちから、第三国公正な斡旋申し出があった場合船津和平工作案の範囲内受諾するとの方針外務省陸海軍三者間で決め広田弘毅外相より10月27日イギリスアメリカフランスドイツイタリアに対して日支交渉のための第三国好意的斡旋受諾する用意のあることを伝えた広田真の狙いドイツ仲介による和平斡旋で、特にディルクゼン駐日ドイツ大使依頼した10月30日トラウトマンは、国民政府外交部次長陳介訪問しドイツコミュニケーションチャンネルとして奉仕する用意があることを伝えた陳介は、蔣介石元帥日本条件は何であるかを知りたがっていると述べたトラウトマン現時点でまだ日本条件をはっきり掴んでいないため、「私が数日中元帥会談することを望んでいる」と答えることに留まった。だが、国民政府次の二点を伝えるように勧めた。すなわち、「我々が日本へのコミュニケーションチャンネルとして奉仕する意志持っていること、そして、私が日本政府対し先ず中国和解用意があるとだけ伝え権限与えられていること」であったなにゆえ蔣介石講和受け入れようとしたのだろうか。実は馬奈木とオットー上海到着したころ、10月25日国民政府国防会議が「停戦問題」を議題秘密会議開催している。

※この「1937年10月」の解説は、「トラウトマン和平工作」の解説の一部です。
「1937年10月」を含む「トラウトマン和平工作」の記事については、「トラウトマン和平工作」の概要を参照ください。

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