関東軍とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 政治 > 軍事 > 部隊 > 関東軍の意味・解説 

かんとう‐ぐん〔クワントウ‐〕【関東軍】


関東軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/14 01:06 UTC 版)

関東軍
新京関東軍総司令部中国語版
創設 1919年大正8年)4月
廃止 1945年昭和20年)8月
所属政体 大日本帝国
所属組織  大日本帝国陸軍
編制単位 総軍
人員 74万人(1941年時点)
所在地 満洲
編成地 旅順
通称号/略称
担当地域 当初は南満洲鉄道附属地
満洲事変以降は満洲
最終位置 新京
戦歴 満洲事変-ノモンハン事件-
第二次世界大戦ソ連対日参戦
テンプレートを表示

関東軍(かんとうぐん、旧字体關東軍)は、大日本帝国陸軍総軍の一つ(1942年昭和17年)10月1日以前はの一つ)。

旅順の関東軍司令部跡(現・関東軍旧蹟博物館)
長春の関東軍司令部跡(現・中国共産党吉林省委員会機関)

関東都督府関東州南満洲鉄道附属地の行政府)の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満洲事変を引き起こして満洲国を建国し、日満議定書1932年9月15日)後は満洲国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。

現地の佐官参謀陣が自らの判断で、政府の不拡大方針を無視して柳条湖事件張作霖爆殺事件などの謀略事件を強行し、その後の日中戦争太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす要因となった。なお、満洲事変は参謀本部陸軍省といった当時の陸軍中央の国防政策からも逸脱していた上、陸軍大元帥統帥権を持つ天皇の許可なしに軍事行動をする事は明確な軍規違反であったが、首謀者達は処罰されるどころか出世した。以降、関東軍は規模を拡大させ、1941年(昭和16年)の最大規模時には総員74万人を数えるほどになり、1945年(昭和20年)8月9日ソ連侵攻で壊滅するまで、満洲国の実質的な統治を行った。

「関東軍」の名称は、警備地であった中国東北部の関東州に由来するもので(関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満洲全体を意味する)、日本の関東地方とは無関係である。

歴史

日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満洲鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。1919年大正8年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍朝鮮軍支那駐屯軍などと同じ、たる関東軍として独立した。司令部は同年4月12日、関東州旅順市初音町に設置され、翌日13日から事務を開始した[1]。当初の編制独立守備隊6個大隊を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみである小規模な軍であった。

1919年4月25日、関東都督府旅順陸軍軍法会議を関東軍旅順陸軍軍法会議に、関東都督府遼陽陸軍軍法会議を関東軍遼陽陸軍軍法会議と改称することを決定し同年5月1日に施行した[2]。同年5月16日、関東軍憲兵隊を配置した[3]

1928年には、北伐による余波が満洲に及ぶことを恐れた関東軍高級参謀河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。しかし、張作霖の跡を継いだ息子張学良は、国民政府への帰属を表明し(易幟)、工作は裏目となった。そのため1931年石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満洲から駆逐し、翌1932年、満洲国を建国する。当初、犬養毅首相は満洲国承認を渋るが、海軍青年士官らによる五・一五事件により殺害され、次の斎藤実内閣日満議定書を締結して満洲国を承認する。その後、関東軍司令官は駐満大使を兼任するとともに、関東軍は満洲国軍と共に満洲国防衛の任に当たり、一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満洲国の主張する国境線を守備する。関東軍司令部は、1934年に満洲国の首都新京市(満洲国消滅後、旧名の長春に戻る)に移った。

一方で、1917年ロシア革命とその後の混乱に中で建国されたソビエト連邦は、ロシア帝国より弱体化していたが、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は赤軍の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実に赤軍の極東軍管区の増強を続けていた。1938年張鼓峰事件朝鮮軍隷下の第19師団が初めて赤軍と交戦し、その実力は侮りがたいことを知る。さらに1939年ノモンハン事件では、関東軍自身が交戦するものの大きな損害を被り、日本陸軍内では北進論が弱まる契機となった[4]。なお、ノモンハン事件の引責で植田謙吉司令官、磯谷廉介参謀長ほか多くの将校が更迭または予備役編入されている。

これらの武力衝突により、赤軍の脅威が認識されたことや第二次世界大戦欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、1936年には、関東軍の編制は4個師団及び独立守備隊5個大隊となっていた。そして、翌1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年6月に勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は最大の総員74万人に達し、「精強百万関東軍」、「無敵関東軍」などと謳われた。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。

関東軍は対ソ戦備だけでなく、通信傍受や人的諜報ヒュミント)により、ソ連情報の収集に努めたが、同時にソ連側も二重スパイを含めて日本や満洲国の情報を探ったり、欺瞞情報をつかませたりしていた[5][6]

1942年10月1日には部隊編制が従来の軍から総軍へと昇格。関東軍は支那派遣軍南方軍と同列となり、司令部(関東軍司令部)は総司令部(関東軍総司令部)へ、従来の司令官は総司令官、参謀長は総参謀長、参謀副長は総参謀副長へと改編された。

しかし、太平洋戦争の戦況が悪化した1943年以降、重点は太平洋各島や東南アジア南方方面)に移ったため、関東軍は戦力を抽出・転用され、兵員は減少を続けた。独ソ戦や日ソ中立条約により、予想された赤軍との戦闘がなかったため、関東軍も進んで南方軍に戦力を提供した。その埋め合わせに1945年になると、在留邦人を対象に約25万人に及ぶ根こそぎ動員を行い、数字上では総員78万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期よりはるかに劣っており、満洲防衛に必要な戦力量には至っていなかった。

1945年5月のナチス・ドイツ降伏後、赤軍の極東への移動が活発になった。6月4日に前総司令官である梅津美治郎参謀総長は大連に赴き、日ソ開戦時、一部の満洲地域を放棄し、防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させ、持久戦に持ち込む作戦を関東軍に命令した。

同年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦した。満洲に侵攻してきた赤軍に対し、10日大本営は朝鮮防衛と司令部の移転を命令(大本営陸軍命令1378号)した。これに基づいて11日より兵員を通化に移送し始めたが、通化では通信設備が完成していないため総司令部は新京に残ったとする説[7]、実際には総司令部は9日未明には発っていたとする説から14日完全に移転したとする説まで総司令部の通化への移動日については諸説ある。また、結局、通化では通信施設が完成していなかったために前線との連絡すら取れず、結局、新京に戻らざるをえなくなったとされる説や、重要な決定放送が15日にあるので新京に戻れとの電話連絡があったので戻ったとする説[8]がある。この間、関東軍は在留邦人の保護に人員を割くことを殆どしなかったために、葛根廟事件などの民間人が虐殺される事件が発生し、「邦人を見捨て逃げ出した」と後に非難されることとなった。一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた9個師団を基幹とする第3方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていたが、反撃に移るまでに8月15日玉音放送を迎えた(正式に降伏と停戦の命令が関東軍総司令部に伝えられたのは16日夕方であった)。「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は、夜10時に停戦を決定し、関東軍の諸部隊は逐次戦闘を停止した。ただし、一部の前線部隊には停戦命令が到達せず、8月末まで戦闘行動を継続した部隊もあった。 同年8月17日、天皇の命を受けた恒徳王が新京に到着。関係部隊の指揮官にポツダム宣言受諾の聖旨を伝達後、奉天、京城をめぐって帰国した[9]。8月22日、新京の関東軍総司令部庁舎にソ連軍が入った[10]

停戦後、関東軍将兵の多くは、ソ連の捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出すこととなる。総司令官の山田や参謀の瀬島龍三陸軍中佐ら関東軍幹部も、11年間の長期にわたって抑留される。近衛文麿元首相の嫡男で近衛家当主であった近衛文隆陸軍中尉はシベリア抑留中に死亡したため、当主不在となった近衛家は、文麿の外孫である近衛忠煇が継ぐこととなった。また、八路軍の捕虜になった林弥一郎陸軍少佐の第4練成飛行隊は、東北民主連軍航空学校を設立して第二次国共内戦において中国共産党側につき、中国人民解放軍空軍の基礎を築いた。

関東軍が関係した戦闘・事件等

基本情報

  • 通称号:徳(徳兵団)
  • 編成時期:1919年4月
  • 最終位置:新京

人事

  • 階級は全て就任時のもの。
  • 昭和17年10月1日には軍から総軍への編制昇格に伴い、総司令官・総参謀長・総参謀副長と呼称変更。
  • 昭和8年7月28日から昭和8年8月22日の間を除き関東軍司令官が満洲国在勤特命全権大使を兼ねた。

司令官・総司令官

  1. 立花小一郎(大正8年 - 大正10年)
  2. 河合操(大正10年 - 大正11年)
  3. 尾野実信(大正11年 - 大正12年)
  4. 白川義則(大正12年 - 昭和元年)
  5. 武藤信義(昭和元年 - 昭和2年)
  6. 村岡長太郎(昭和2年 - 昭和4年) - 張作霖爆殺事件
  7. 畑英太郎(昭和4年 - 昭和5年)
  8. 菱刈隆(昭和5年 - 昭和6年)
  9. 本庄繁(昭和6年 - 昭和7年) - 満洲事変
  10. 武藤信義(昭和7年 - 昭和8年)
  11. 菱刈隆(昭和8年 - 昭和9年)
  12. 南次郎(昭和9年 - 昭和11年)
  13. 植田謙吉(昭和11年 - 昭和14年) - ノモンハン事件
  14. 梅津美治郎(昭和14年 - 昭和19年) - 1942年以後、総司令官。
  15. 山田乙三(昭和19年 - 昭和20年) - 終戦時の総司令官。ソ連軍によって抑留される。

参謀長・総参謀長

  • 浜面又助少将(陸士4期:大正8年4月12日~大正10年3月11日)
  • 福原佳哉少将(陸士5期:大正10年3月11日~大正12年8月6日)
  • 川田明治少将(陸士10期:大正12年8月6日~大正14年12月2日)
  • 斎藤 恒少将(陸士10期:大正14年12月2日~昭和3年8月10日)
  • 三宅光治少将(陸士13期:昭和3年8月10日~昭和7年4月11日)
  • 橋本虎之助少将(陸士14期 昭和7年4月11日~昭和7年8月8日)
  • 小磯国昭中将(陸士12期 昭和7年8月8日~昭和9年3月5日)
  • 西尾寿造中将(陸士14期 昭和9年3月5日~昭和11年3月23日)
  • 板垣征四郎少将(陸士16期 昭和11年3月23日~昭和12年3月1日)
  • 東條英機中将(陸士17期 昭和12年3月1日~昭和13年5月30日)
  • 磯谷廉介中将(陸士16期 昭和13年6月18日~昭和14年9月7日)
  • 飯村穣中将(陸士21期 昭和14年9月7日~昭和15年10月22日)
  • 木村兵太郎中将(陸士20期 昭和15年10月22日~昭和16年4月10日)
  • 吉本貞一中将(陸士20期 昭和16年4月10日~昭和17年8月1日)
  • 笠原幸雄中将(陸士22期 昭和17年8月1日~昭和20年4月7日)
  • 秦彦三郎中将(陸士24期:昭和20年4月7日~終戦)

参謀副長・総参謀副長

  • 岡村寧次少将(陸士16期:昭和7年8月8日~昭和9年12月10日)
  • 板垣征四郎少将(陸士16期:昭和9年12月10日~昭和11年3月23日)
  • 今村均少将(陸士19期:昭和11年3月23日~昭和12年8月2日)
  • 笠原幸雄少将(陸士22期:昭和12年8月2日~昭和12年9月27日)
  • 石原莞爾少将(陸士21期:昭和12年9月27日~昭和13年12月5日)
  • 矢野音三郎少将(陸士22期:昭和13年12月5日~昭和14年9月7日)
  • 遠藤三郎少将(陸士26期:昭和14年9月7日~昭和15年3月9日)
  • 秦彦三郎少将(陸士24期:昭和15年3月9日~昭和16年5月9日)
  • 吉岡安直少将(陸士25期:昭和16年5月13日~昭和16年7月7日)
  • 綾部橘樹少将(陸士27期:昭和16年7月7日~昭和17年7月1日)
  • 秦彦三郎少将(陸士24期:昭和16年7月23日~昭和17年7月1日)
  • 池田純久少将(陸士28期:昭和17年7月1日~昭和20年7月28日;情報・政策担当)
  • 田村義富少将(陸士31期:昭和18年8月2日~昭和19年2月25日;作戦担当)
  • 松村知勝少将(陸士33期:昭和20年3月1日~終戦;作戦担当)
  • 四手井綱正中将(陸士27期:昭和20年7月29日~昭和20年8月18日;情報・政策担当、赴任途上の台湾で飛行機事故により殉職)

高級参謀・第1課長

※昭和6年10月5日から第1課長

  • 香椎秀一(陸士6期:大正8年4月12日~大正8年6月28日)
  • 高橋小藤治(陸士9期:大正8年6月28日~大正9年4月1日)
  • 竹森正一(陸士11期:大正9年4月1日~大正11年8月15日)
  • 松井七夫(陸士11期:大正11年8月15日~大正12年11月10日)
  • 黒田周一(陸士14期:大正12年11月10日~大正15年3月2日)
  • 河本大作(陸士15期:大正15年3月2日~昭和4年5月14日)
  • 板垣征四郎(陸士16期:昭和4年5月14日~昭和6年10月5日)
  • 石原莞爾(陸士21期:昭和6年10月5日~昭和7年8月8日)
  • 斎藤弥平太(陸士19期:昭和7年8月8日~昭和8年8月1日)
  • 塚田攻(陸士19期:昭和8年8月1日~昭和10年3月15日)
  • 下村定(陸士20期:昭和10年3月15日~昭和10年12月2日)
  • 坂西一良(陸士23期:昭和10年12月2日~昭和12年3月1日)
  • 綾部橘樹(陸士27期:昭和12年3月1日~昭和12年10月30日)
  • 安部克巳[11](陸士28期:昭和12年10月30日~昭和14年3月9日)
  • 寺田雅雄(陸士29期:昭和14年3月9日~昭和14年9月7日)
  • 有末次(陸士31期:昭和14年9月7日~昭和15年10月10日)
  • 田村義富(陸士31期:昭和15年10月10日~昭和18年8月2日)
  • 松村知勝(陸士33期:昭和18年8月2日~終戦)

作戦主任参謀

  • 浦澄江中佐(陸士16期:大正12年4月~大正15年3月)
  • 役山久義中佐(陸士19期:大正15年8月6日~昭和3年10月10日)
  • 石原莞爾中佐(陸士21期:昭和3年10月10日~昭和7年8月8日)
  • 遠藤三郎少佐(陸士26期:昭和7年8月8日~昭和9年8月1日)
  • 河辺虎四郎中佐(陸士24期:昭和9年8月1日~昭和10年8月1日)
  • 綾部橘樹中佐(陸士27期:昭和10年8月1日~昭和12年10月30日)
  • 欠員 (昭和12年10月30日~昭和13年3月1日)
  • 岡部英一中佐(陸士31期:昭和13年3月1日~昭和14年3月9日)
  • 服部卓四郎中佐(陸士34期:昭和14年3月9日~昭和14年9月7日)
  • 中山源夫中佐(陸士32期:昭和14年9月7日~昭和15年8月1日)
  • 武居清太郎中佐(陸士35期:昭和15年8月1日~昭和18年8月2日)
  • 草地貞吾中佐(陸士39期:昭和18年8月2日~終戦)

情報主任参謀・第2課長

※昭和16年10月5日から第2課長

  • 桜田武(陸士25期:大正14年8月7日~昭和3年8月10日)
  • 花谷正(陸士26期:昭和3年8月10日~昭和4年8月)
  • 新井匡夫(陸士26期:昭和4年8月~昭和6年10月5日)
  • 板垣征四郎(陸士16期:昭和6年10月5日~昭和7年8月8日)
  • 喜多誠一(陸士19期:昭和7年8月8日~昭和9年8月1日)
  • 石本寅三(陸士23期:昭和9年8月1日~昭和10年8月1日)
  • 河辺虎四郎(陸士24期:昭和10年8月1日~昭和11年6月19日)
  • 武藤章(陸士25期:昭和11年6月19日~昭和12年3月1日)
  • 冨永恭次(陸士25期:昭和12年3月1日~昭和13年3月1日)
  • 山岡道武(陸士30期:昭和13年3月1日~昭和14年4月20日)
  • 磯村武亮(陸士30期:昭和14年4月20日~昭和15年11月9日)
  • 甲谷悦雄(陸士36期:昭和15年11月9日~昭和16年2月4日)
  • 西村敏雄(陸士32期:昭和16年2月4日~昭和17年8月20日)
  • 武田功(陸士34期:昭和17年8月20日~昭和19年10月31日)
  • 大越兼二(陸士36期:昭和19年10月31日~昭和20年4月10日)
  • 浅田三郎(陸士36期:昭和20年4月10日~終戦)

後方主任参謀・第3課長

※昭和16年10月5日から第3課長

  • 竹下義晴(陸士23期:昭和6年10月5日~昭和7年8月8日)
  • 原田熊吉(陸士22期:昭和7年8月8日~昭和10年8月1日)
  • 永津佐比重(陸士23期:昭和10年8月1日~昭和11年3月15日)
  • 竹下義晴(陸士23期:昭和11年3月15日~昭和12年10月13日)
  • 中野良次(陸士29期:昭和12年12月1日~昭和14年3月9日)[12]
  • 磯矢伍郎(陸士29期:昭和14年4月20日~昭和15年8月1日)
  • 青木一枝(陸士33期:昭和15年8月1日~昭和16年9月11日)
  • 村中嘉二郎(陸士33期:昭和16年9月11日~昭和18年8月2日)
  • 中島義雄(陸士36期:昭和18年8月2日~昭和19年2月7日)
  • 谷岩蔵(陸士37期:昭和20年1月12日~終戦)

政策主任参謀・第4課長

※昭和16年10月5日から第4課長

  • 松井太久郎(陸士22期:昭和6年10月5日~昭和7年2月17日)
  • 坂田義郎(陸士21期:昭和7年2月17日~昭和8年8月28日)
  • 秋山義隆(陸士24期:昭和8年8月28日~昭和9年8月1日)
  • 欠員 (昭和9年8月1日~昭和12年3月1日)
  • 片倉衷少佐(陸士31期:昭和12年3月1日~昭和14年8月1日)
  • 黒川邦輔中佐(陸士32期:昭和14年8月1日~昭和17年2月14日)
  • 小尾哲三大佐(陸士34期:昭和17年2月14日~昭和19年10月14日)
  • 原善四郎中佐(陸士40期:昭和19年10月14日~昭和20年8月7日)
  • 宮本悦雄大佐(陸士38期:昭和20年8月7日~終戦)

報道部長

※報道部長は参謀の発令を受ける

  • 甲谷悦雄(陸士36期:昭和15年8月1日~昭和15年11月9日)
  • 長谷川宇一(陸士32期:昭和15年12月2日~終戦)

経理部長

  • 佐野会輔:主計総監(昭和5年12月22日~昭和8年8月1日)
  • 鈴木熊太郎:一等主計正(昭和8年8月1日~昭和11年12月1日)
  • 矢部潤二:主計監(昭和11年12月1日~昭和14年8月1日)
  • 古野好武:主計少将(昭和14年8月1日~昭和20年7月5日)
  • 栗橋保正:主計中将(昭和20年7月5日~終戦)

軍医部長

  • 伊藤賢三:軍医監(昭和6年8月1日~昭和9年3月5日)
  • 梶井貞吉:軍医監(昭和9年3月5日~昭和10年8月1日)
  • 石黒大介:軍医監(昭和10年8月1日~昭和11年8月1日)
  • 出井淳三:軍医総監(昭和11年8月1日~昭和13年3月1日)
  • 斎藤干城:軍医少将(昭和13年3月1日~昭和14年12月1日)
  • 梶塚隆二:軍医少将(昭和14年12月1日~終戦)

獣医部長

※以下、『日本陸海軍総合事典』第2版、350頁による。

  • 田崎武八郎:一等獣医正(昭和5年3月6日~昭和7年12月7日)
  • 渡辺中:一等獣医正(昭和7年12月7日~昭和10年8月1日)
  • 田崎武八郎:獣医監(昭和10年8月1日~昭和12年3月1日)
  • 欠:(昭和12年3月2日~昭和12年8月1日)
  • 町山博多:獣医少将(昭和12年8月2日~昭和15年3月9日)
  • 武富三郎:獣医少将(昭和15年3月9日~昭和16年3月1日)
  • 高橋隆篤:獣医少将(昭和16年3月1日~終戦)※1942年12月1日獣医中将[13]

法務部長

  • 大山文雄(昭和4年6月21日~昭和7年12月19日)
  • 竹沢卯一(昭和7年12月19日~?)
  • 匂坂春平 陸軍法務官(昭和13年1月20日~昭和15年3月29日)
  • 松本倭文雄 法務少将(昭和15年3月29日~昭和20年4月20日)
  • 小幡通徳 法務少将(昭和20年4月20日~終戦)

補給監

※補給監は昭和17年10月20日に新設され、参謀長が兼任した。

補給監部参謀長

  • 高田清秀大佐(陸士29期:昭和17年10月20日~昭和18年8月2日)
  • 田村義富少将(陸士31期:昭和18年8月2日~昭和19年2月25日)
  • 佐藤傑少将(陸士29期:昭和19年2月25日~終戦)

特種情報部長

※昭和13年8月1日に参謀部第2課別班として設置され、研究部と俗称された。
※昭和16年5月15日に特種情報部に改編
※昭和19年6月30日に特種情報隊に改編

  • 大久保俊次郎大佐(陸士24期:昭和13年8月1日~昭和17年8月1日)
  • 深堀游亀少将(陸士28期:昭和17年8月1日~昭和18年6月10日)
  • 小松巳三雄大佐(陸士29期:昭和18年6月10日~終戦)

築城部長

※創設当初は関東軍参謀部第2別班と称した。
※昭和16年5月31日築城部へ改編
※昭和20年5月25日建設団へ改編

  • 前田正実大佐(陸士25期:昭和12年7月5日~昭和13年2月1日)
  • 河田末三郎大佐(陸士25期:昭和13年2月1日~昭和17年8月10日)
  • 久保禎三少将(陸士28期:昭和17年8月10日~昭和18年6月10日)
  • 花井京之助大佐(陸士32期:昭和19年7月15日~終戦)

化学部長

※昭和14年8月1日に技術部から独立

  • 勝村福治郎大佐(陸士27期:昭和14年8月1日~昭和14年11月1日)
  • 小柳津政雄大佐(陸士28期:昭和14年11月1日~昭和15年12月2日)
  • 宮本清一大佐(陸士29期:昭和15年12月2日~昭和18年1月18日)
  • 山脇正男少将(陸士28期:昭和18年1月18日~昭和19年6月20日)
  • 秋山金正少将(陸士30期:昭和19年6月20日~昭和20年7月28日)
  • 丹羽利男大佐(陸士34期:昭和20年7月28日~終戦)

防疫給水部長

関東軍防疫給水部の項参照

軍馬防疫廠

関東軍軍馬防疫廠の項参照

大陸鉄道司令官

※関東軍野戦鉄道司令官として設置
※昭和19年12月16日大陸鉄道司令官と改称

  • 舞伝男少将(陸士19期:昭和12年8月20日~昭和14年3月9日)
  • 草場辰巳中将(陸士20期:昭和14年3月9日~昭和15年10月1日)
  • 横山静雄中将(陸士24期:昭和15年10月1日~昭和17年6月26日)
  • 木村経広中将(陸士23期:昭和17年8月31日~昭和18年12月27日)
  • 鎌田銓一少将(陸士29期:昭和18年12月27日~昭和19年12月16日)
  • 草場辰巳 予備役中将(陸士20期:昭和19年12月16日~終戦)

その他の主要な参謀

(順不同:主任参謀(課長レベル)になっていない者)

  • 辻政信大尉(13年より少佐):昭和11年4月〜12年8月、11月〜39年9月
  • 田中隆吉中佐:参謀部第2課兵要地誌班長(蒙古工作担当)、昭和10年3月〜昭和12年8月
  • 朝枝繁春少佐:昭和17年7月〜昭和19年3月(うち昭和18年12月〜昭和19年2月までソ連に出張)
  • 竹田宮恒徳王中佐:昭和18年3月〜
  • 瀬島龍三中佐:昭和20年7月1日〜

高級副官

  • 小林隆大佐:昭和12年8月2日〜昭和14年3月

司令部附

※ 満洲国軍への出向者は満洲国軍軍事顧問の項参照

  • 安藤麟三少佐(8月6日に陸軍砲兵中佐):大正15年2月18日〜昭和3年11月
  • 有村恒道大佐:昭和10年8月1日〜11年6月
  • 畑勇三郎少将:昭和14年11月〜

なお網羅的な資料が存在しないため、関東軍の全ての時代の参謀の氏名を把握することはできない。

関東軍総司令部の編制

  • 参謀部
    • 第1課
    • 第2課
    • 第3課
    • 第4課
  • 経理部
  • 軍医部
  • 獣医部
  • 法務部
  • 補給監部

昭和16年(1941年)12月の所属部隊

終戦時の所属部隊

脚注

  1. ^ 官報』第2014号(大正8年4月23日)
  2. ^ 『官報』第2025号(大正8年5月6日)
  3. ^ 『官報』第2039号(大正8年5月23日)
  4. ^ なお戦後、張鼓峰・ノモンハン両事件は、日本陸軍の一方的敗北であったと考えられていたが、ソビエト連邦の崩壊により明らかになった文書によると、両戦闘におけるソ連側の損害は実は日本側を上回っていた事実が分かった。これにより特にノモンハン事件の評価に関して再検討が行われた。
  5. ^ 【砂上の国家 満州のスパイ戦】打ち立てた傀儡 謀略の最前線朝日新聞』朝刊2021年8月15日1面(同日閲覧)
  6. ^ 【砂上の国家 満州のスパイ戦】極東のパリ入り乱れる真偽/貨車に謎の印 物資輸送筒抜け/現場軽視 二重スパイに欺かれる『朝日新聞』朝刊2021年8月15日2面(同日閲覧)
  7. ^ 富田武『日ソ戦争 1945年8月』みすず書房、2020年7月17日、209頁。 
  8. ^ 半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』文芸春秋〈文春文庫〉、2002年8月10日、250頁。 
  9. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第九』東京書籍、2016年9月29日、775.776頁。ISBN 978-4-487-74409-1 
  10. ^ 日置英剛『年表 太平洋戦争全史』国書刊行会、2005年10月31日、739頁。 ISBN 978-4-336-04719-9 
  11. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『陸の荒鷲殊勲甲. 前篇』124頁 (編著者:皇輝会本部 出版者:皇輝会 発行:昭和16年(1941年)8月8日) (2018年11月3日閲覧。)
  12. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』405頁。
  13. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』553頁
  14. ^ a b c d e f g ●日米交渉当時の日本陸軍の部隊編成”. 国立公文書館 アジア歴史センター. 2023年2月9日閲覧。

参考文献

関連文献

関連項目


関東軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:13 UTC 版)

ソ連対日参戦」の記事における「関東軍」の解説

関東軍は満州防衛の為、ソ連との国境に14永久要塞建設していた。 東寧要塞アジア最大地下要塞東寧重砲兵連隊配置された。 綏芬河要塞 半截要塞 虎頭要塞シベリア鉄道視認する戦略上の要衝にあり、東西10km南北4km規模を誇る。試製四十一糎榴弾砲九〇式二十四糎列車加農筆頭大口径長射程重砲配備された。 霍爾要塞 璦琿要塞 黒河要塞 海拉爾要塞ハイラル市取り囲むように、周囲の山に陣地築かれ最大3万人収容できる大陸屈指の要塞であった西部防衛の要 五家要塞 鹿鳴要塞 観月要塞 廟嶺要塞 法別拉要塞 鳳翔要塞 関東軍の作戦構想とは、要塞群密集する東部北部主力部隊配置してソ連軍阻止し西方面では逐次的抗戦段階的な後退行動によって敵部隊消耗させつつ連京線以東山岳地帯誘導して、ここで敵主力可能な限り叩き最終的に通化臨江中心とする総複郭内立て篭もる。 また満州各地広く遊撃戦行い、できる限りソ連軍の戦力破砕する。ただし一部前進阻止遅滞させるための玉砕的な戦闘予想しうる後退の際には適時交通要所重要施設破壊して、敵の行動妨害する、というものだった日本軍満州地形最大限利用し防衛計画立てた満州農業工業大半平野部集中し三方から囲む山岳森林天然要害となっていた。特に西部大興安嶺標高900メートル達しわずかな峠道湿地帯覆われ機械化兵力通行適していなかった。 全部隊兵力の比率日満軍1に対して赤軍は1.15であり単純な兵員数大きな差はなかった。ただ戦車と砲の数はソ連圧倒的であり、日本軍満州天然要害活かして兵器面での劣勢相殺した。西部通行不能な地形なため、日本軍東部北部北西鉄道沿線国境要塞線に戦力集中し第1方面軍だけが縦深的防御態勢とっていた。 西部海拉爾要塞純粋な防衛拠点なのにたいし、東部虎頭綏芬河東寧要塞反撃用の攻勢拠点としての機能有していた。東部の三要塞には砲兵部隊重点的に配置され虎頭綏芬河東寧ライン主力決戦用の攻勢拠点として整備された。鹿鳴台・五家子・観月要塞間隙部の防衛ソ連軍の攻勢阻止し日本軍の反撃支援する攻防両面機能兼ね備えていた。 西部正面海拉爾要塞東部での反撃完了するまで西部ソ連軍攻勢抑止することが求められた。北部西部東部での決戦完了するまで守勢徹し東部での作戦完了次第撤退開始ソ連軍主力山岳部誘導し東部日本軍主力合流した上で撃破作戦移行する日本軍要塞陣地単純な防御施設とどまらず、敵を効果的に分断撃破する機動戦用の戦略拠点として機能した戦術理論として一定の合理性を持つ作戦であったものの、当時の情勢と関東軍の準備状況などからは遊撃戦の展開や段階的な後退は非常に実行困難な作戦であった西正面ソ連軍機甲部隊に対しては、第44軍(3個師団基幹)と第108師団配備した過ぎず、またこれらの部隊火力機動力ともに機甲部隊に対して不足しており、実戦では各個撃破される危険性高かった。 また関東軍は、戦力の差を縮めるためにゲリラ戦重視していたが、これは現実的に難しく、困難であった東部正面においては元来工事準備遅れており、陣地防御ままならない状況であった通信網でさえ第一線部隊司令部であっても通じておらず、第一方面軍司令部第五軍司令部通信は、8月14日になってからであった

※この「関東軍」の解説は、「ソ連対日参戦」の解説の一部です。
「関東軍」を含む「ソ連対日参戦」の記事については、「ソ連対日参戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「関東軍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



関東軍と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「関東軍」の関連用語

関東軍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



関東軍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの関東軍 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのソ連対日参戦 (改訂履歴)、南満洲鉄道 (改訂履歴)、虹色のトロツキー (改訂履歴)、南満州鉄道 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS