みなみまんしゅう‐てつどう〔みなみマンシウテツダウ〕【南満州鉄道】
南満州鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:17 UTC 版)
南満州鉄道(みなみまんしゅうてつどう、正式な表記は「南満洲鉄道」)は、日露戦争終結後、1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約によって、ロシア帝国から大日本帝国に譲渡された東清鉄道南満州支線(長春・旅順間鉄道)のこと[1]。また、支線を含む鉄道事業および付属事業を経営する目的で、1906年(明治39年)に設立された特殊会社、南満洲鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、旧字体:南滿洲鐵道󠄁株式會社[注釈 1][2]、英語: The South Manchuria Railway Co., Ltd.)を指す[1]。南満州において鉄道運輸業を営み、日本の満洲経略における重要拠点となった[1]。略称は満鉄(まんてつ、滿鐵)。
注釈
- ^ 旧字体「」の字は、異体字セレクタを用いたUnicodeの符号位置はU+9053,U+E0101。
- ^ 現在の港区麻布台2丁目1番2号、跡地には東京アメリカンクラブが造られた
- ^ 2020年現在、1979年新築の商船三井本社ビルがある。また、東京支社の売却益は満鉄会の活動費にあてられた
- ^ ポーツマス条約第6条は長春以南の東清鉄道南支線のロシアから日本に譲渡すること、第7条は両国の満洲における鉄道を商工業目的のために限って使用し、軍略のために用いないこと、第8条は両国間の鉄道の接続業務について早急に別役を設けることを、それぞれ定めた[21] → 条約本文は「日露講和條約(ウィキソース)」参照。
- ^ 「日本政府ノ獲得セル満洲鉄道並附属財産ノ買収、該鉄道ノ復旧整備改築及延長並ニ大連ニ於ケル鉄道終端ノ完成及改良ノ為資金ヲ整フルノ目的ヲ以テ一ノシンジケートヲ組織スルコト」「両当事者ハ其取得シタル財産ニ対シ共同且均等ノ所有権を有スベキモノトス」が、その骨子であった[18]。
- ^ ロシアと清国の間では旅順・大連租借に関する露清条約(1898年)・満洲に関する露清協定(1900年)が結ばれ、そこではロシア・清国両国人以外は鉄道に関与できないこととなっていた[28]。
- ^ 残りは、東洋拓殖会社や韓国政府への貸付などに投資された[43]。
- ^ 「午前8時の男でやろう」とは、要するに若手を起用しようということ。後藤新平は、世間を知った働きざかりの「午後3時」ではなく、経験は浅くても新鮮なやる気に満ちた年代の人を用いることを人事の大方針とした。
- ^ 満鉄重役の地位は、このころから政党の利権の対象となりつつあり、政党が植民地企業を支配しようという動きも表面化してきた[54]。朝鮮の東洋拓殖株式会社副総裁にも、このとき、政友会から野田卯太郎が送り込まれている[54]。
- ^ 「弐(ニ)キ」とは東条英機と星野直樹、「参(三)スケ」とは松岡洋右、鮎川義介、岸信介。
出典
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南満洲鉄道
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南満洲鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、旧字体:南滿洲鐵道󠄁株式會社[注釈 1][1])は、南満洲の鉄道会社[2]。日露戦争に勝利した後、1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約に基づき、東清鉄道南満洲支線(長春・旅順間鉄道)やその支線はロシアから日本に譲渡され[3]、鉄道事業および付属事業を経営する目的で1906年(明治39年)に設立された半官半民企業であり[4]、日本の満洲経略において重要な位置を占めた企業へと発展した[2]。略称は満鉄(まんてつ、旧字体:滿鐵)。
- 1 南満洲鉄道とは
- 2 南満洲鉄道の概要
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