ごいちご‐じけん【五・一五事件】
五・一五事件
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五・一五事件(ごいちごじけん[1])は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件。武装した陸海軍の青年将校たちが内閣総理大臣官邸に乱入し、第29代内閣総理大臣の犬養毅を殺害した。
注釈
出典
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “五・一五事件”. コトバンク. 2019年5月15日閲覧。
- ^ a b c d e 小山俊樹、『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』、中公新書
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- ^ 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・時事新報(昭和8年(1933年)11月10日) 犯罪,刑務所および免囚保護(5-122)
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- ^ 『憲高秘第九〇四號』より「五月事件ニ關スル件報告(通牒)」(昭和七年五月二十日 憲兵司令官 秦眞次)
- ^ 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第四巻 通史編Ⅱ、学校法人明治大学、1994年、250-251頁
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- ^ 古賀、三上、黒岩が最後に出所『東京朝日新聞』(昭和13年7月6日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p133
- ^ 読売新聞昭和7年5月15日第三号外
- ^ 『昭和史発掘』
- ^ 『昭和動乱期の回想』
- ^ 血盟団、二・二六事件などの記録提出命令(昭和20年12月16日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p345 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 『昭和史探訪2』
- ^ allcinema『映画 重臣と青年将校 陸海軍流血史 (1958)について 映画データベース - allcinema』 。2023年9月27日閲覧。
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- ^ なるお, もりた (2000). 昭和維新 : 小説五・一五事件. 東京: 新人物往来社
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五・一五事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 10:23 UTC 版)
1932年(昭和7年)5月15日、上述の三名や同期生の中村義雄、海兵54期の三上卓ら海軍士官10名、橘孝三郎らの愛郷塾関係者、陸軍士官学校生徒は犬養毅総理を射殺した。当時霞ヶ浦海軍航空隊で操縦学生の学生長(学生中の先任者)であった浅水は同期生らと相談の結果特別弁護人に選ばれた。同じく特別弁護人となった朝田肆六(海兵54期)らと弁護士の塚崎直義を訪問し、無報酬弁護や他の弁護人選任の約束を取り付け、清瀬一郎、林逸郎などで構成される弁護団が結成された。浅水は横須賀鎮守府附となり収監された被告人らの面倒をみていたが、支払を請け負った林らの書籍購入代金が高額になり困惑する一幕もあった。なお海兵同期生は、死後の遺産分配や不祥事を起こした者の進退問題にも関与するなど、家族ぐるみで親しい関係をもっていた。ただし、五・一五事件においては弁護人を出さなかったクラスもある。 現職総理を現役海軍士官が射殺する前代未聞の事件は、世界恐慌の影響で疲弊した社会状況やロンドン海軍軍縮条約での統帥権干犯問題などを背景に抱えており、被告人に対しては批判とともに同情論も存在した。海軍部内もその処分を巡って意見が分かれたが、厳罰派も同情派も事件の動機が「憂国の情」 に発することを認めて被告人らの心情に理解を示していたのであり、また新聞や世論にも同様の傾向があった。同情派には加藤寛治ら艦隊派、岡村徳長、小園安名、源田實、板谷茂など、大官では田中光顕が同調した動きをみせている。 海軍側被告の裁判は高須四郎大佐(海兵35期)が裁判長となり、7月24日に開廷した。公判が進むに連れて被告人に対する同情論は高まり、寄せられた減刑嘆願書は69万7千通。なかには血書が1千22通含まれていた。9月11日には山本高治検察官の論告求刑、浅水、朝田の特別弁論が行われ、山本検察官は次の三件の要件を満たすことによって反乱罪を構成するとして、三上、古賀、黒岩勇(海兵54期)の三名に死刑を求刑した。 党を結ぶこと 軍刑法百五条には左の規定があります。 服従の道に違うことを目的として党を結びたる者は云々、六月以上五年以下の禁固に処す。と規定せられ居るより観るも明なる如く党を結ぶことのみにても罪となり処罰せらるることとなっております。 兵器を執ること 現行海軍刑法においても兵器を執りある種の犯罪を実行したるものは夫々特に重く処罰せらるることと相成っております。 反乱を為すこと 反乱を為すとは国憲に抵抗して暴動を為すことをいうのであります。軍人は国家の干城として国防の任にあたり又非常警察の場合において国家治安保護の任務に服すべきものであります。しかるにその本分に背き国憲に抵抗しその治安を紊乱するが如き行動は厳にこれを戒めねばなりません。 — 林正義『5・15事件』「東京軍法会議」 これに対し浅水は56期を代表し、熱弁をふるって弁護した。この際の浅水の様子は、検察官を睨み、卓をたたき、涙ながらのものであり、被告人らも涙を流した。新聞はその様子を「満員の法廷は寂として声なし」と報じている。弁論内容は次の通り(適宜句読点を補った)。 (前略)わが級友が、直接行動を選ばねばならなかったのは何故でありましょうか。現在日本の世相がしからしめたのではありますまいか。憂れうべきこの世相、恐るべきこの国難の時局は、一体誰が持ち来らしめるものでしょうか。1921年(大正10年)アメリカの策略は、平和の美名に名をかりて遂にかのワシントン条約をつくりあげたのでありました。(中略)引き続き起こったのは日本移民排斥法案の通過でありました。(中略)かくして輝く希望と殉国の熱誠を抱き江田島を巣立ち、太平洋の怒涛の上に立った私達の眼前に展開された世の有様は如何でありましたか。主力艦の欠は補助艦をもって、量の欠は質をもって、そしてその燃料と爆薬の欠はただ我々の熱と意気をもって補おうと日夜研鑽、武を練り技を磨きつつあった私達の眼に映った国内の有様は果たして如何でありましたか。時弊は凝って遂に恐るべき議会中心主義となって現れ不戦条約となってその正体を暴露し、遂に亡国的ロンドン条約は締結せられたのでありました。(中略)実にのろうべきロンドン条約でありました。しかも統帥の大権が干犯せられたというに至っては誠にいうべき言葉も知らなかったのであります。遂に国難来る。1936年(昭和11年)国防の危機線 - 米国海軍の兵力量は名実共に本年(1933年)をもって日本のそれを凌駕し去ろうとしているのであります。更に翻って国内の情勢を見れば思想界の混乱は遂にその極に達し、国民は凶作に泣き不況に沈み、沈りんのはて乱をさえ思うものがあったではありませんか。(中略)彼等の心中は私達戦友がもっともよく知っております。徒に政党財閥を攻撃し、特権階級の非を鳴らすために立った彼等ではないのであります。(中略)彼等戦友の純一無雑しゅんこ(ママ)として純なる一死尽忠の誠心のみは是非共これをお汲みとり下さいますことを伏して庶幾し奉る次第であります。(後略) — 血で描いた五・一五事件の真相 陸海軍大公判と血盟団公判の解説「同期生浅水中尉の特別弁論」 被告らは退廷の際、浅水、朝田に「ご苦労でした」と礼を述べている。翌日には海兵40期から58期の有志68名によって決議文が採択され、高須裁判長、大角岑生海相、野村直邦横須賀鎮守府司令長官に提出予定であると新聞は報じている。11月9日に下った判決は、三上、古賀の禁固15年が最高刑であった。鈴木貫太郎は死刑判決を受けたものがいなかったことを「許すべからざる失態」と批判しているが、高須は家族に対し「被処刑者が英雄視されることを避けたかった」と語っていた。 翌日、浅水は朝田らと執行猶予となった林正義らの釈放を出迎えた。それから数日間、林らは救国の英雄扱いを受け、林は艦隊派の連絡掛の役割を担ってゆく。 この事件によって、戦前日本の政党政治は終焉を迎えた。池田清は五・一五事件に加わった海軍士官の心情につき、エリート意識と現実社会の低い評価とのギャップの存在を指摘している。
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五・一五事件
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詳細は「五・一五事件」を参照 古賀清志と中村義雄は3月13日に、血盟団の残党を集め、橘孝三郎の愛郷塾を決起させ、陸軍士官候補生の一団を加え、さらに、大川周明、本間憲一郎、頭山秀三の援助を求めたうえで、再度陸軍の決起を促し、大集団テロを敢行する計画をたて、本事件の数か月後に五・一五事件を起こした。 西田税が陸軍側を説得して同事件への参加を阻止したことから、これを裏切り行為と見た海軍側は暗殺を計画し、血盟団員の川崎長光を刺客に放った。事件当日、川崎は西田の自宅を訪問し短銃で重傷を負わせたが、暗殺には失敗する(西田税暗殺未遂事件)。 また事件当日、同じく団員だった奥田秀夫(明治大学予科生)は、三菱銀行前に手榴弾を投げ込み爆発させた。
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