世界恐慌の影響(1930年 - 1933年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「世界恐慌の影響(1930年 - 1933年)」の解説
世界恐慌(1929年)により財政難に陥ったダイムラー・ベンツはレース活動を大幅に縮小し、1930年限りで自社チームによる参戦を停止する。そのため、1931年から1933年にかけて、ダイムラー・ベンツのレース活動はメルセデス・ベンツの車両を使う小規模なプライベーターを支援する形のみの関わりとなる。 1930年ヨーロッパヒルクライム選手権のスポーツカー部門でルドルフ・カラツィオラがチャンピオンになる。 末、ダイムラー・ベンツがレース活動の停止を決定する。ノイバウアーの嘆願を入れて、翌年はカラツィオラへの支援を行う。(→#チーム・カラツィオラ) 1931年ポルシェが設計したSSKにニベルが軽量化を施しSSKLを完成させる。 4月、ミッレミリアでSSKLが優勝し、ドイツ車として同レースにおける初優勝を果たし、カラツィオラとコドライバーのヴィルヘルム・セバスチャンはドイツ人ドライバーとして同レースにおける唯一の優勝を遂げる。 この年もヨーロッパヒルクライム選手権のスポーツカー部門でルドルフ・カラツィオラがチャンピオンとなり、連覇を果たす。 1932年財政状況の悪化により、ダイムラー・ベンツが会社としてのレース活動を完全に中止する。 5月、アヴスレンネンで、プライベーターのSSKLが優勝する(ドライバーはマンフレート・フォン・ブラウヒッチュ)。(→#SSKLストリームライナー) 6月、ドイツ・ケムニッツで、アウトウニオンが設立される。同社のレーシングチームは、1934年以降、メルセデスチームの強力なライバルとなる。(→#アウトウニオンの創設) 10月12日、AIACRが1934年から新規則(750㎏フォーミュラ)を施行することを採決する。この時点で、経済的な苦境にあったダイムラー・ベンツや他のメーカーはこの規則についてそれほど重要視はしていなかった。 11月5日、ノイバウアーがアウトウニオンの重役であるクラウス・フォン・ウルツェン(英語版)と面会し、アウトウニオンへの移籍に同意する契約を結ぶ。 11月、ノイバウアーがダイムラー・ベンツの取締役会議長であるヴィルヘルム・キッセルに辞職届を提出するが、キッセルが慰留し、レース復帰を約束したことで、ノイバウアーはダイムラー・ベンツに留まる。 1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に任命され、ヒトラー内閣が成立する。(ナチス・ドイツの始まり)ヒトラーはダイムラー・ベンツとアウトウニオンに対して、レース活動への奨励金を出すことを伝える。(→#ナチスとの関係) 2月、ベルリンモーターショー(IAA)でヒトラーが演説を行い、ドイツの自動車産業を振興することについて宣言するとともに、ドイツにとって自動車レースにおける活躍が重要となることを訴える。 3月、ダイムラー・ベンツの取締役会が翌年からのレース復帰を決定する。(→#レース復帰の決定) 11月18日、W25の試作車が完成し、最初のテストが行われる。
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