SSKLストリームライナー(1932年アヴスレンネン)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「SSKLストリームライナー(1932年アヴスレンネン)」の解説
SSKLストリームライナー(1932年アヴスレンネン) アヴスのコース図 SSKLは1931年シーズンを前に4台が製造され、最初の2台はワークスチーム用に確保され、3台目はホーエンローエ=バルテンシュタイン伯爵家所有となり、4台目はハンス・フォン・ツィンマーマン男爵が入手した。ツィンマーマン男爵はいとこであるマンフレート・フォン・ブラウヒッチュのレース活動のパトロンをしており、この車両はブラウヒッチュが使用することとなる。 1932年5月のアヴスレンネンに出場するにあたって、高速サーキットのアヴス用にブラウヒッチュのSSKLには空気力学の専門家であるラインハルト・フォン・ケーニッヒ=ファクセンフェルト(英語版)の設計による流線形(ストリームライン)のボディが架装された。コーチビルダーのヴェッター(ドイツ語版)の手になるボディは無塗装であるためアルミ合金そのままの銀色をしており、何よりもその異形は大いに注目を集め、その形状から「キュウリ」であるとか「タイヤを付けたツェッペリン」といったあだ名が付けられた。その形状は奇をてらったものではなく、この改造によりアヴスで重要となる最高速は通常仕様のSSKLと比べて20 km/h向上したとされ、レース中の平均時速は当時としては驚異的な194 km/hを記録した。 このレースは前年限りでメルセデスを去ったカラツィオラが駆る白く塗装されたアルファロメオ・8C 2300モンツァとブラウヒッチュの銀色のSSKLストリームライナーによる一騎打ちとなった。カラツィオラが経験の浅いブラウヒッチュを相手に首位を入れ替えつつレースの主導権を握り、最終ラップではカラツィオラが首位を走行していたが、ブラウヒッチュが最後に逆転して4秒弱の僅差で優勝を飾った。 「 何という驚き! フォン・ブラウヒッチュがカラツィオラをリード! 銀色の矢が来る、マンフレート・フォン・ブラウヒッチュの重く巨大な車です。最終コーナーをフルスロットルで回ってくる!(Welch eine Überraschung! Von Brauchitsch führt vor Caracciola! Eben kommt der silberne Pfeil, der schwere wuchtige Wagen des Manfred von Brauchitsch. Da schwingt er in die letzte Kurve hinein – mit Vollgas!) 」 —パウル・ラベン(1932年アヴスレンネン) このレースのラジオ生中継で実況をしていたパウル・ラベン(ドイツ語版)はブラウヒッチュが駆る銀色のSSKLのことをレース実況の中で「Silbernen Pfeil」(シルバープファイル、日本語で「銀色の矢」、すなわち「シルバーアロー」)と形容した。こうしてレース前に「キュウリ」と呼ばれたこの車両は、「シルバーアロー」という新たな異名を得たのである。このSSKLストリームライナーは、1920年代から続いていたSシリーズの時代と1934年以降の「シルバーアロー」時代をつなぐ橋渡し役を担った車両として後に評価されることになる。
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SSKLストリームライナー(1932年アヴスレンネン)
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「シルバーアロー」の記事における「SSKLストリームライナー(1932年アヴスレンネン)」の解説
「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ#SSKLストリームライナー(1932年アヴスレンネン)」も参照 W25がいつから「シルバーアロー」と呼ばれ始めたのか、正確なところが不明瞭である一方、W25以前にメルセデス・ベンツ車両に対して「シルバーアロー」という呼称が用いられた例が存在する。これは上記のW25が登場する2年前、ダイムラー・ベンツがレース活動を停止していた1932年の出来事になる。 1932年当時、ブラウヒッチュはプライベーター(自費で参加するアマチュア)としてメルセデス・ベンツ・SSKL(フランス語版)に乗ってレースに参戦しており、この年の5月に開催されたアヴスレンネン(フランス語版)にもプライベーターとして参戦した。このレースは、ブラウヒッチュの流線形のボディが架装されたSSKLとルドルフ・カラツィオラのアルファロメオによる一騎打ちとなり、最終的にプライベーターの新人ブラウヒッチュがファイナルラップでカラツィオラを逆転して優勝を飾るという劇的な結果に終わった。 このレースのラジオ生中継で実況をしていたパウル・ラベン(ドイツ語版)は、ブラウヒッチュが駆るアルミ剥き出しで銀色に光るSSKLがファイナルラップでカラツィオラをオーバーテイクしたことに興奮し、レース実況の中でブラウヒッチュのSSKLのことを「Silbernen Pfeil」(シルバーアロー)と形容した。これは「シルバーアロー」という用語がメルセデス・ベンツのレーシングカーに使用された最初の例だと考えられている。 Welch eine Überraschung! Von Brauchitsch führt vor Caracciola! Eben kommt der silberne Pfeil, der schwere wuchtige Wagen des Manfred von Brauchitsch. Da schwingt er in die letzte Kurve hinein – mit Vollgas!日本語訳:何という驚き! フォン・ブラウヒッチュがカラツィオラをリード! 銀色の矢が来る、マンフレート・フォン・ブラウヒッチュの重く巨大な車です。最終コーナーをフルスロットルで回ってくる! — パウル・ラベン(1932年アヴスレンネン) メルセデス・ベンツはこの1932年の例ではなく、上記の逸話の1934年をシルバーアローが誕生した年としている。この点についてメルセデス・ベンツ・クラシックセンターの責任者(2007年当時)であるヨーゼフ・エルンストは、1934年よりも前に銀色の車両が走っていたという事実は認めつつ、アヴスレンネンはドイツの国内レースであり、銀色のメルセデス・ベンツワークス車両が(ナショナルカラーで戦う)国際レースに参戦するようになったのは1934年であるからその年を始まりの年にしていると説明している。
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