モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/22 01:53 UTC 版)
モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツでは、ドイツの自動車メーカーであるメルセデス・ベンツ・グループ社のブランドである「メルセデス・ベンツ」車両で行われてきたモータースポーツ活動の歴史について記述する[表記の注釈 1]。「メルセデス・ベンツ」ブランドが誕生する1926年以前の、ベンツ社とダイムラー社(Daimler Motoren Gesellschaft、DMG)の活動についても記述する。
注釈
- ^ 本記事では、ブランドとしての「メルセデス・ベンツ」との区別を容易にするため、会社組織としての「メルセデス・ベンツ・グループ」(Mercedes-Benz Group AG)と「メルセデス・ベンツ」(Mercedes-Benz AG)について社名であることがわかるよう末尾に「社」を付ける。
- ^ 本記事では、混同の恐れがない場合、ダイムラー社(DMG)のことは「ダイムラー」、ベンツ社のことは「ベンツ」と表記する。カール・ベンツ、ゴットリープ・ダイムラー、パウル・ダイムラーは常にフルネームで表記する。
- ^ ダイムラー社(メルセデス)とベンツ社の車両の多くは馬力を入れた名称を付けられている。馬力の表記は原語のドイツ語では「PS」(仏馬力。この車両であれば「35PS」)、英語ではしばしば「HP」(英馬力。同「35HP」)が用いられている。日本語表記では「PS」と「HP」の表記が混在しているが、メルセデス・ベンツ日本では「PS」表記を用いているため、この記事では車名の表記に「PS」を用いる。
- ^ 本記事では、(第二次世界大戦以前の)同社の設計開発部門の長(「technical director」、「chief engineer」)について、日本語資料でよく使われる表記に合わせて「技術部長」と表記する。
- ^ ダイムラー・ベンツ社の表記について、他の会社と並記する都合などがない限りは、本記事では「ダイムラー・ベンツ社」ではなく「ダイムラー・ベンツ」と表記する。
- ^ 本記事では1926年から1955年までの同社のレースチームに「メルセデスチーム」という表記を用いる。1926年から1955年まで、同社は自社チームに社名と同じ「ダイムラー・ベンツ」(Daimler Benz AG)という名称を用いてレースに参戦しているが、この表記を用いると会社としてのダイムラー・ベンツとの混同を避け難いためである。ノイバウアーやカラツィオラは自伝の中でチームを指す時に単に「メルセデス」と呼んでいるため、「メルセデス・ベンツチーム」ではなく「メルセデスチーム」と表記する。
- ^ 「Willi Müller」は「ビリ・ミラー」、「ウィリ・ミュラー」と日本語の資料によって表記ゆれがある。一貫性のため、「ヴィリ・ミュラー」と表記する。
出典
- ^ カール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーは生涯面識を得ることがなかった[8]。両者が自動車を発明した後、カール・ベンツはゴットリープ・ダイムラーと会ってみたいと思ったが、機会は訪れず[8]、そうこうする内に1900年にゴットリープ・ダイムラーはこの世を去った。
- ^ その後、今日のメルセデス・ベンツ・グループ社までに、1926年に両社の合併によって設立されたダイムラー・ベンツ社(Daimler-Benz AG)、1998年にクライスラーとの合併により設立されたダイムラークライスラー(DaimlerChrysler AG)、クライスラー部門の分離により2007年に改名された「ダイムラー」(Daimler AG)を経て、現在の「メルセデス・ベンツ・グループ」(Mercedes-Benz Group AG)という社名にはトラック部門との分離により2022年に改名された。自動車のブランド名としての「メルセデス・ベンツ」はダイムラー・ベンツ社が設立された1926年に制定され、会社としてのメルセデス・ベンツ社(Mercedes-Benz AG、2代目)は2019年に設立された(詳細は「#沿革」を参照)。
- ^ 写真の車両は販売代理をしているエミール・ロジェの名前から「ロジェ・ベンツ」とも呼ばれる。運転席に座っているロジェは右手でティラーハンドル(舵式のハンドル)を握り、左手でスロットル調整用のレバーを握っている。
- ^ 自動車を使った最初のイベントについて、フランスの新聞「ル・ベロシペード」が1887年に企画したヌイイ(パリ)からヴェルサイユに向かうショートレースが最初の例だとする説もある[9][W 9](走ったのはセーヌ川周辺のみという説もある[W 10])。このレースは開催当日の1887年4月28日(もしくは4月20日[W 10])に参加したのがジュール・アルベール・ド・ディオンの蒸気自動車1台のみだったため[9][W 9][W 10][W 11]、イベントとして不成立とみなし、1894年のパリ・ルーアンを最初の例とするのが通説である。
- ^ パナール・エ・ルヴァソールの共同経営者であるエミール・ルヴァソールとゴットリープ・ダイムラーの間には親交があり、ルヴァソールは単にダイムラーのエンジンをライセンス生産するだけでなく、共同でエンジンを開発するパートナーという面があった[11]。(「パナール」も参照)
- ^ 2座が対面式となっていることからこの名称が付けられた。自動車を受け入れたのはフランスが先だったため、ベンツ車は当初はフランス語による名前が付けられていた[12]。「ヴィ・ザ・ヴィ」と表記されることもある[12]。
- ^ この時の車両について、資料によっては「ベンツ・ヴェロ」となっているが、ダイムラー社は「ヴィザヴィ」としているので[W 14][W 15]、本記事ではそちらに沿って記述している。ドライバーのエミール・ロジェはフランスで1888年からベンツの販売を手掛けていた人物である[13][14][W 16]。
- ^ フランクフルトで行われたレースのような閉鎖された周回路におけるレースは認めた[20]。
- ^ カール・ベンツは自伝の中でレースに興じるフランスとアメリカをそれぞれ「スピード中毒の国」、「スピード狂」と評しており[24]、自身の考えとは距離があることを示している。
- ^ イェリネックは「ムッシュ・メルセデス」という仮名を用いてレースに参加した[27]。仮名で参加していた理由は、19世紀末の時点では自動車遊びは「貴族や上流社会の者が嗜むような趣味ではない」という偏見があったためである[27]。同様の理由で、イェリネックと同じくダイムラーの初期の顧客である[28]、銀行家のアンリ・ド・ロスチャイルドも「ドクター・パスカル」という偽名を名乗ってレースに参加していた[27]。
- ^ 総領事というのは名誉職のようなもので、本業は実業家だった[29]。夏はウィーン近郊のバーデン、冬は温暖なニースに住むという生活を送っていた[20]。
- ^ フェニックスは馬車のデザインをまだ引きずっており運転席の位置が高いこと、車体前部に重いエンジン(300㎏)を搭載し、高性能なエンジンを冷却するためラジエーターも大型化し重心が極端に前に寄っていること、にもかかわらずスピードは時速80㎞以上出ることなどから、事故は起こるべくして起こったとも考えられている[31]。後のダイムラー・ベンツは「シャシーはエンジンより速くあらねばならない」という哲学を持ち、足回りはエンジンより勝っているべきだとしていたことからすると、フェニックスはそれとは極端に反した車だった[29]。
- ^ この1号車は2座席のレース仕様として1900年末に完成し、1901年3月にニース・スピードウィークに投入された[35]。1901年中に公道用のツーリングカー仕様(4座席)なども製造・販売された[35]。
- ^ イェリネックはダイムラーの自動車を委託販売する形で商売をしていたが、この時の依頼では36台全て買い取ることを約束した[36]。36台というこの注文は当時のダイムラーが年間に販売する台数の1/4に相当する大口の注文だった[37]。
- ^ 他に、オーストリア、ハンガリー、フランス、ベルギー、アメリカ合衆国における販売代理権も要望した[29][34]。イェリネックが名前に要望を出した理由はいくつかあったとされる。ひとつはフランスではパナールがダイムラーのエンジンの製造権を持っていたため、ダイムラーの名前を使うと混乱を招く恐れがあったためである[36]。ふたつ目の事情として普仏戦争(1870年)による反ドイツ感情がフランスにはまだ残っており「ダイムラー」というドイツ的な名前は避けたい思惑があったためである[36]。「メルセデス」という名にした理由としては、顧客の富豪たちは皆が男性であることから「愛してもらうには女性の名であらねばならぬ」という判断があったためと考えられている[34][39]。
- ^ メルセデス・35PSは先進的な設計の車ではあったが、ニース・スピードウィークは当時の自動車レースとしてはローカルな小イベントであり、35馬力という出力も当時としては大きなものではなく、1901年当時の時点で他の車両と比べて圧倒的に優れた性能を持つというわけではなかった[41][31](スプリントレースやヒルクライムには強かったものの、当時の主流である都市間レースには向いていなかった[42])。ダイムラーはより大きな自動車レースでも競争力を持てるようメルセデスに改良を重ね、1902年には後継車両のメルセデス・シンプレックス(40馬力)が開発され、優れた車体性能を持つメルセデスは倍以上の排気量を持つライバルに対しても総合性能で遜色のない走りをすることができるようになった[31]。
- ^ ガンスは商才のある人物で、1890年代にベンツ車が利益をあげられるようになったのは、販売網を構築し大型の取引を獲得したガンスの功績とされる[45]。1900年に年間603台を売って世界一の販売台数を記録したベンツ社だったが[46]、ダイムラー(メルセデス)の台頭に伴い、1902年には385台まで落ち、その後も200台以下にまで落ち込んでいった[2]。
- ^ 「ミスター・オイゲン」を名乗る人物がベンツ車でエントリーして、開催地のパリまでは行ったがレースに参戦はしなかった[50]。
- ^ 6月10日午前2時半頃とされる[51]。
- ^ 当時は全てイギリス領。前年にイギリスチームが勝ったためイギリス開催となったが、本島での開催が不可能だったためアイルランド島で開催することになった。
- ^ ウンターテュルクハイムにおける最初の施設は1903年12月に操業を開始した[51]。その後、カンシュタットは1904年にシュトゥットガルト市の一部になり、1933年7月に「バート・カンシュタット」に名が改められた。100年以上経った2023年現在の今日でも、バート・カンシュタット南部からウンターテュルクハイムにかけたネッカー川沿岸一帯にメルセデス・ベンツ・グループ社の本拠地が置かれている。
- ^ ゴードン・ベネット・カップは国別対抗を強調するあまり、部品のひとつに至るまで自国の製品であることを求めた[50]。ダイムラーは上記の第4回大会でメルセデスに「ドイツ製の」ミシュランタイヤ(フランス)を履かせてアイルランド島に到着したが、これも不許可となるほど厳格に運用されており、現地でコンチネンタル(ドイツ)に交換する羽目に陥っている[53]。
- ^ 今日のグランプリレース(F1)につながるグランプリという意味では、この時のレースが最初のグランプリにあたる。「グランプリ」という名前が自動車レースに付けられたのはこの時が初めてというわけではなく、厳密には、1901年にフランスのポー・レースウィーク中の比較的小さな自動車レースで「ポーグランプリ」の名称が付けられた例が最初と考えられている[57]。
- ^ マイバッハが設計して1906年からレースに投入され、先進的すぎたために不振の原因となったOHCエンジンを巡る争いが、マイバッハが離脱する主因となる[59]。表面上の原因とは別に、根本的な原因はダイムラー(DMG)の技術陣の間に以前からあったマイバッハの才能への嫉妬心だったと言われており、イェリネックも同社のこの悪弊については嘆く言葉を残している[59]。
- ^ パウル・ダイムラーはゴットリープ・ダイムラーの息子で、1906年まではダイムラーの子会社のアウストロ・ダイムラーで技術部門の責任者(技術部長)をしていた。パウル・ダイムラーは、当初、マイバッハのOHCエンジンを自らが設計した無難なプッシュロッドエンジンに置き換えるが[61]、数年後、レース用と航空機用の全てのエンジンでOHCを採用し[62]、マイバッハの方針が正しかったことを追認することになる。
- ^ この1908年時点で、ベンツはダイムラーと遜色ないレベルまでレース車両の開発能力を高めていた[64][25]。ベンツのエメリは優勝したメルセデスのラウテンシュラガーに対して6時間のレースで8分遅れで2位となっているが、このレースでエメリは跳ね石でゴーグルを破損して目の治療のためにタイムロスしており、それがなければ優勝もあり得たと言われている[25]。
- ^ この月のレースは11月2日のレースと11月28日のレースがあり、前者を不成立として後者を「米国で最初のレース」とみなす説が比較的一般的だが、メルセデス・ベンツ・グループ社は前者を最初のレースとみなしている[W 31]。ベンツ車両はどちらのレースにも参戦し、11月2日のレースでは優勝(唯一の完走)、11月28日のレースでは2位という結果を残している[W 31][W 32]。
- ^ 車名の「18/100」は、「18」は課税馬力、「100」は公称馬力に基づいて付けられている[67]。
- ^ これは小排気量車を得意とするフランスとイギリスの車両を有利にするためだったと考えられている[68]。
- ^ このレースの例から後のノイバウアーではなくザイラーを「史上初のレース監督」とする見方もある[71]。
- ^ 序盤でザイラーが飛ばして捨て駒となったのはレース前から決められていたチームの作戦だったと言われている[72]。これが自動車レースにおいて「チーム戦術」が用いられた史上初の例だとされることもある[64]。
- ^ 当時はレース用車両でもブレーキを後輪のみに備えるのが一般的だったが、1914年フランスグランプリのプジョーは四輪全てにブレーキを備えており(史上初とされる)、制動力に優れ、非常に洗練された車両だった[71]。一方で、このレースにおけるプジョーの敗因として、チームとしてのプジョーは前年と前々年のフランスグランプリを連勝していたことで油断があったことと、5月のこの年のインディ500にチーム全体で遠征したため、フランスGPに対する準備不足があったことの2点が指摘されている[69]。
- ^ 2位になったルイ・ワグネの車両だとする説もある[W 38]。
- ^ 終戦からしばらくはイギリスやフランスのレース主催者は敵国だったドイツ車の参加を認めなかったため、レース活動の舞台はもっぱらイタリアとなった[64]。
- ^ イタリア国内の公道レースであるため、1924年のタルガ・フローリオに参戦したメルセデス車両・3台はレース中にイタリア人観客から妨害(投石)を受けることを避けるため、例外的に白ではなくイタリアのナショナルカラーである赤で塗装された[W 41][W 42]。
- ^ 前述してきたように、1900年代からのダイムラー社(DMG)のレーシングカー開発の中心人物でもある。1923年にダイムラーを去り、フェルディナント・ポルシェが後事を引き継いだ。
- ^ 一例として、1.5リッターDOHC、4気筒エンジンにスーパーチャージャーを装着した場合、当時としては驚異的な80馬力を発生させることができたと言われている[64]。
- ^ このレースは全5周で争われ、最初の4周はタルガ・フロリオ、全体の5周はコッパ・フロリオという扱いだった[83]。
- ^ 写真左側が車体前部、右側が車体後部である。ボディはレースの種類に応じて複数の仕様があり、この画像の形態はグランプリ仕様である。
- ^ 前述してきたように、1900年代からのベンツ社のレーシングカー開発の中心人物でもある。後述するように、ダイムラー・ベンツではダイムラーから合流してきたフェルディナント・ポルシェとともに技術部門を担った。ポルシェが1928年限りで去った後は単独の技術部長となり、1934年のW25の開発まで手掛けた(同年末に急死)。
- ^ 1926年にメルセデス・ベンツとなってからはリアエンジン・ミッドシップのレイアウトはしばらく採用しなかったが、四輪独立懸架の足回りは採用し、レース用車両では、メルセデス・ベンツになってから初めて開発されたレース専用車であるW25(1934年)から使用している[87]。(後述)
- ^ 1928年限りでダイムラー・ベンツを去ったが、1930年代末の速度記録車「メルセデス・ベンツ・T80」の開発にあたって再び関与する(「#T80(1939年)」を参照)。
- ^ 「SS」は「Super Sport」の略というのが正式だが、ドイツ語の「Sehr schnell」(とても速い)の略だと言われることもある[98]。
- ^ ポルシェには小型大衆車を作りたいという夢があり、高級車の開発販売を志向するダイムラー・ベンツと対立した結果、同社を去った[81]。
- ^ 「K」は「Kompressor」の略で、スーパーチャージャー搭載であることを示している。
- ^ SSKLの製造台数は4台、もしくは数台のみだと言われている。製造台数が不明瞭なのはレース専用として開発された特殊な車で、製造台数について正確な記録が残っていないためである[105]。「SSKL」として製造された車両は製造記録の上では「SSK(1931年型)」となっていて、通常のSSKと区別できないためである[W 56]。乗用車も含めた「SSK」全体でも製造台数は30台を少し超える程度(「33台」と言われることが多い)であり[106][81]、いずれにせよ当時の時点でも希少な車だった。
- ^ 戦略面からの貢献が大きかったことから、監督のノイバウアーはミッレミリアについて自伝で詳細に記している[108]。一方、ドライバーのカラツィオラは、この年に新型車タイプ51を投入して優勢だったブガッティに対して、不利を覆して勝利したドイツGPが印象的だったようで[110]、自伝の中でドイツGPのことを詳細に記述して懐古している[111]。
- ^ 実際にこの規定が採用されていたのは1922年から1925年の4年間のみだが[112]、フォーミュラ・リブレが主流となったことで、イタリアとフランスのメーカーは1920年代後半もこの規定をベースにした車両で参戦する例が多かった。
- ^ レースに参戦するためではなく、オープンカーとして使用した[W 59][W 60]。
- ^ 「キュウリ」と名付けたのはドライバーのブラウヒッチュ[W 56]、「ツェッペリン」と呼んだのはベルリンの観客たちだと言われている[117]。
- ^ カラツィオラが去った後もレースに情熱を燃やしていたノイバウアーは、1932年は職務としてではなく個人的にブラウヒッチュらメルセデス系プライベーターの監督をしていた。この年はダイムラー・ベンツからプライベーターへの技術的な支援もほとんどなくなっていたが、ノイバウアーの計らいにより、このレースの前にブラウヒッチュのSSKLはエンジンのオーバーホールを受け、ギア比を高速寄りに変更するという調整も施された[W 53]。そういった整備や調整もあったが、もしもエンジンの出力のみでSSKLの最高速を20 km/hも高めようとしたら、80馬力は向上させないといけないと考えられており、このボディの効果は絶大だった[W 64][W 62]。
- ^ この年のカラツィオラは白い車両と赤い車両のどちらにも乗っている[118]。ノイバウアーは自伝でこのレースの車両を「赤いアルファ」と記しているが[119]、当時の写真は白の車両なので白としている[W 65]。
- ^ レース中はカラツィオラに先行させ、その後ろでスリップストリームに入りつつ、無用の争いを避けてタイヤを温存し、最後に首位に立つ、というのがノイバウアーの作戦で、カラツィオラもその作戦を見抜いていた[119]。レース途中で指示に従わずに首位を走行したブラウヒッチュに対してノイバウアーは激怒している[119]。
- ^ 設立時のアウトウニオンは規模としてはダイムラー・ベンツよりも若干大きく、1933年時点でダイムラー・ベンツの年間売上がおよそ1億ライヒスマルクだったのに対して、アウトウニオンは1億1600万ライヒスマルクほどだった[121]。ナチス政権が誕生したことで両社ともに売上を倍以上に増やすが、ダイムラー・ベンツは軍需製品の受注が伸びたことから、1930年代半ばからは両社の売上規模は逆転することになる[121]。
- ^ レース中の事故の多発が問題になっており、安全性向上のため、車両の高速化に歯止めをかける狙いがあった[115]。重量以外は規制されておらず、排気量も無制限だが、1920年代の「2リッターフォーミュラ」に類する車両の車重がおおむね700㎏から800㎏程度だったことから、重量の上限が750㎏であれば、エンジン出力は自然と250馬力程度に抑えられるという思惑だった[87]。後述するように、この思惑は大きく外れることになる[123][W 69]。
- ^ 最軽量のSSKLでも1,500㎏あるため。
- ^ 1933年と1934年に休止していたヨーロッパ選手権がこの年に復活し、ドライバーズタイトル(ヨーロッパチャンピオン)が掛けられるようになった。
- ^ ヒューンライン自身が大の自動車レース好きだったという事情にもよるとされる。カラツィオラはヒューンラインについて「いばりちらしてはいるが人のよい男で、国家社会党の理想を心から信じており、自分の地位を利用して金持ちになったり利権をほしいままにしたりはできない男だった」と述懐し、悪印象はなかったことを述べている[131]。アウトウニオン側から関わりのあったフェリー・ポルシェはヒューンラインについて「面白味に欠けた男で、レースに純粋に興味を持っていたことを除けば、(能力的に)その役職に全く不適格であるように見えた」と評している[130]。
- ^ メルセデスチームの復帰レースにあたる。同チームのイタリア人ドライバーであるルイジ・ファジオーリがレース序盤をリードしていたが、NSKKの顔を立てるため、チームメイトの(ドイツ人である)ブラウヒッチュに譲るようチームオーダーが出されたと言われている[132]。チームの要請に従い2位に下がったファジオーリは、レース終盤に「ちょっとした不具合」があったためピットでリタイアし、ブラウヒッチュが優勝し、アウトウニオンのハンス・シュトゥックが2位に入り、ドイツ人ドライバーが1-2フィニッシュを遂げるというレース結果が残された[132]。
- ^ 開戦後はウーレンハウトは出自を理由にゲシュタポの監視下に置かれており、個人としては制約が課されている。
- ^ もともとは年間45万マルクをダイムラー・ベンツに支払うという取り決めだったが、アウトウニオンが異議を申し出たため両社で折半して22万5千マルクずつということになった[73]。
- ^ 政府からレースチームへの奨励金について、ノイバウアーはボーナスを含めて「年間45万マルク」で「レーシングチーム1つを維持していく費用の10%以下だったが、無いよりはましだった」と記している[115]。シルバーアロー時代の年間予算について、資料によって、「250万マルク」[74][W 29]、「400万マルク」[75]という説もあるが、ノイバウアーの発言を信じれば500万マルク程度ということになる。
- ^ ニベルとマックス・ヴァグナーのコンビは、W25の設計を担当する以前の1931年にリアエンジンの試作乗用車W17の設計を手掛け、1934年にその市販車である130 (W23)が発売されている。
- ^ 通常は314馬力で、コンプレッションを上げることで最大354馬力を発生させることができた[75]。
- ^ 1934年のW25のデビュー時点で、ライバルであるアウトウニオンのV型16気筒(V16)エンジンはW25のM25Aエンジンより排気量が1,000㏄ほど上だった[75](4,300cc程度)。そのため、M25エンジンにはスーパーチャージャーの改良などにより、初年度の内に数度の強化が加えられた[75]。
- ^ 補欠として、ハンス・ガイアー、エルンスト・ヘンネとも契約している[W 69]。
- ^ ドライビング能力への評価はともかく、性格に激しやすい面があるのはファジオーリも同様であり、彼の起用は気が進まなかったことをノイバウアは述懐している[142]。その不安は的中し、チームスピリットというものを持たないファジオーリとはやがて決裂することになる[143]。
- ^ このテストは5月末のアヴスレンネンの練習走行を利用して行われ、カラツィオラはブラウヒッチュとファジオーリのタイムを破った[129]。
- ^ テストの段階でW25ショートカーに問題点があることはわかっていたが、この初戦は雨だったため、カラツィオラは車をだましだまし走らざるを得ず、問題点の洗い出しは遅れることになった[146]。
- ^ この車両は前2シーズンに使われたW25と外観が異なるが、正式な型番は「W25」のままで、ダイムラー・ベンツの中では単に「モデル1936」もしくは「ショートカー」と呼ばれた[148][149]。同社が後年作成した資料の中では区別のための便宜上「W25E」と表記しているケースもある(W25の各モデルにこの種の区別が必要になる場合、同社はM25エンジンの型番に合わせてアルファベットを付している)[149]。他の呼称(ダイムラーが用いない呼び方)として、「W25C」(1934年の車両を「A」、1935年の車両を「B」とみなした呼び方)、「W25K」(「ショートカー」を意味する「Kurzer Wagen」の「K」を付けた呼び方)が用いられることもよくある[150]。
- ^ 「M25C」の次が「ME25」となるのは、搭載見送りとなった試作V12エンジン(MD25エンジン[W 79]、M25DABエンジン)が「D」に相当するためである[151]。このDシリーズエンジンはグランプリレースで使用されることはなく、フォーミュラ・リブレで行われた1937年のアヴスレンネンで1基のみ用意され、ブラウヒッチュ車に搭載された例が数少ないレースでの使用例である(練習走行で故障した)。その後は速度記録車用に転用されることになった(詳細は「#最高速度記録」を参照)。
- ^ 結果的にこれは過剰となり、ド・ディオン式サスペンションはW25の車体に対して「性能が良すぎた」ため、接地性や加速が向上した分、剛性の弱い車体フレームに負荷をかけて不具合を引き起こす一因となっていたことが後に明らかになる[153]。
- ^ ホイールベースが短すぎたことに加えて、車体剛性の不足に問題の大きな原因があることが後に明らかになった。
- ^ ウーレンハウトはレーシングカーの運転経験はなかったが、ニュルブルクリンクで市販車の走行テストをする際に高速走行の経験は豊富だったため、W25も問題なく運転することが可能だった[154]。
- ^ 失敗作のW25ショートカーもドディオン式のリアサスペンションは高く評価されていたため、W125でも修正の上で取り入れることになった。
- ^ レース部門の設立後も実際の開発は中央設計本部がしばらく担当した[157]。W125の車体を設計したのはヴァグナーだが、実質的にコンセプトはウーレンハウトによるものであることから、W125はウーレンハウトの設計だとされることが常で、ノイバウアーやダイムラーはW125はウーレンハウトが設計した車両として説明している[138][W 80]。
- ^ 一例として、1960年代から1970年代までF1で広く使用されたフォード・コスワース・DFVエンジンの出力は400馬力から500馬力程度であり、過給時のM125エンジンはそれを上回る出力ということになる。速度記録車については話が別で、同時期のシルバーアローによる挑戦では元々は1936年型W25用に開発されていたV型12気筒のM25Dエンジンを転用しており、1937年末のW125レコルトワーゲンに搭載されたM25DBAエンジンは最大で736馬力を瞬間的に出力したとされる[161]。
- ^ タイムアタックを行わせ、このオーディション中に1名が事故死している。
- ^ 社会階級の違いからラングを見下す傾向があったのはブラウヒッチュに限らず、中産階級出身のカラツィオラもラングが台頭するようになるとブラウヒッチュに連帯するようになり、ドライビングについてカラツィオラを絶賛するノイバウアーもこの点は手を焼いたことを自伝の中で記している[138][163][164]。
- ^ 唯一落としたのはイタリアグランプリで、このレースではアウトウニオンのヌヴォラーリが優勝した。このレースでカラツィオラが3位に入ってヨーロッパチャンピオンを確定させたものの、レースそのものは完敗したため、ノイバウアーは激怒する[89]。
- ^ この選択は特に不自然なものではなく、他のチームの大部分も自然吸気エンジンか過給機付きかという違いはあれ、最大排気量にすることを選択した[155]。
- ^ W154はW125を小排気量にリファインしたものだと説明されることがあるが、実際には逆で、1936年時点ですでに構想が固まっていたW154を幹として、急遽開発が必要になったW125という枝が派生したというのが実態であるとされる[165]。
- ^ 外観が異なっていたことに加えて、車両発表時にダイムラー・ベンツが出したプレスリリースの誤表記により、この車両は(エンジン名の「M163」から)「W163」という誤った車名で紹介されてしまい、1960年代まで「1938年の車両はW154で、1939年の車両はW163である」という誤解が通説としてまかり通る結果となった[168]。
- ^ 非選手権の主要レースも含めれば、この年はイタリアで開催された5月のトリポリグランプリ、7月のコッパ・チアーノ、8月のコッパ・アチェルボ(ペスカーラ)、9月のイタリアグランプリ(モンツァ)のいずれもドイツ車が勝利している。コッパ・アチェルボでは、少しでもイタリア、フランス車が戦えるようになるよう、メルセデス・ベンツとアウトウニオンが絶大なアドバンテージを持っていた直線区間の途中にシケインを設けるということまでしたが、それでも歯が立たなかった[174]。
- ^ オスマン帝国から奪取した1911年(伊土戦争)からイギリスに奪取される1943年までの間、トリポリはイタリアの植民地だった。(この時期については「イタリア領リビア」を参照)
- ^ ラング車はスピードは出る代わりにタイヤの摩耗は早まるため1ストップ作戦、カラツィオラはノンストップ作戦として、ラング車にトラブルが発生した場合に備えた[163][177]。
- ^ 独ソ不可侵条約は1939年の開戦直前に結ばれた条約であり、これを独ソの一時的な協調だと見る向きはあったにせよ、2年も経たない内に破られると予想することは当時のドイツの人々には困難だった[180]。
- ^ 一例として、スイスに置かれた2台のW165はスイス当局に差し押さえられ、戦利品として競売にかけられている[182]。1台(1号車{車体番号449546}[183])はスイスのメルセデス・ベンツディーラーが競り落として取り戻したが、もう1台は人手に渡っていった[182](2023年現在は2台ともメルセデス・ベンツ博物館が所蔵している)。
- ^ この見方はナチス政権に限ったことではなく、「スイスに逃亡し、ドイツを守る義務を果たさなかった」ことから、カラツィオラに対する不評はレース仲間の間でも存在した[179]。
- ^ ファンジオのスタイルを学ぶため、モスはファンジオの車の後ろにぴったりとついて走るということを複数のレースで行っていた[185]。ファンジオは英語を話せず、モスはスペイン語を話せなかったため、会話はモスが少し話せたイタリア語とジェスチャーを混ぜて行われたが、この二人は仲は良かったという[186]。モスが仕掛けてこないことを知っていたため、ファンジオも無理にインを閉めるような走りはしなかった[186]。
- ^ 移籍前のマセラティでも2勝しておりファンジオとしてはシーズンで6勝している。
- ^ 7戦中1-2フィニッシュは4回記録し、4台が参戦したイギリスグランプリでは1位から4位までを独占した。
- ^ 1939年トリポリグランプリで、W165はアルファロメオ・158に難なく勝利しているが、アルファロメオは1946年にはレース活動を再開し、158には1940年代後半を通じて改良が加えられていた。
- ^ シートには蟹股で座る必要があり、シフトチェンジも通常とは逆なのでそれを覚えるのに少し時間がかかったとモスは回顧している[186]。
- ^ 画像の車両は300SLRのエンジンを搭載した3リッターカーで、非選手権で用いられた(当時のF1の技術規則には適合しない)。M196エンジンより大きなエンジンを搭載しているため、ボンネット中央にふくらみがある[202]。
- ^ 高速サーキットのモンツァであればストリームライナー仕様が当然速いと思われたが、モンツァでも誰が乗り比べてもオープンホイール仕様のほうがラップタイムは2秒速かった[205]。これは、ストリームライナー仕様にはコーナーからの立ち上がり加速時にリアタイヤがグリップを失う特性があることと、正確なコーナリングが困難だったことが原因だった[205]。
- ^ 契約前にモスはW196の試乗を行っているが、これは(シーマンの時のように)メルセデスチーム側がオーディションとして行ったものではなく、起用をオファーされたモスの側が契約前に試乗しておきたいと要望したため行われた[208]。
- ^ メルセデスチームは同種の高速輸送車を1920年代から運用していた[210][211]。
- ^ その後、1967年に廃棄されたが、1993年から復元計画が進められ、2001年に復元車が完成した[W 88]。
- ^ 「Mercedes-Benz AG」。ダイムラー・ベンツ社内の組織再編により、乗用車部門の子会社として1989年から1997年まで一時的に存在していた(2019年の組織再編によって設立された同名の会社とは異なる)。
- ^ F1復帰に向けた動きが始まった時期について、当時メルセデス・ベンツのモータースポーツ部門責任者だったヨッヘン・ニアパッシュは「メルセデスがレースに復帰した時(1988年)」としており、他方、マックス・ウェルティやレオ・レスのようなザウバーの関係者は「1990年以前にそうした動きがあった覚えはない」と語っている[W 94]。
- ^ 表向きはグループCカー開発のためということで、F1参戦は否定していた。この時点では、メルセデスはエンジンサプライヤー(エンジン供給のみをする立場)としてF1参戦するという考えを持っていなかった[216]。
- ^ M291エンジンは1991年の世界スポーツカー選手権(WSC)新規定に合わせて開発されたもので、これは将来のF1参戦で使用することも視野に入れて開発されたものだったため[120]、F1参戦するにあたってこのエンジンの使用を最初に考えることは順当なことだった。
- ^ ポスルスウェイトがザウバーに移籍する直前に在籍していたティレルは翌1992年からイルモアを搭載する予定だったため、ポスルスウェイトはイルモアについてよく知っていた[217]。
- ^ ペーター・ザウバーとイルモアのマリオ・イリエンは同郷(どちらもスイス人)であり、ザウバーはイリエンと面会させるため、メルセデス・ベンツ社社長のニーファーと同社エンジン部門の責任者ウォルフガング・ペーターをイルモアに連れていって説得を試みた[218]。その結果、両名ともイルモアの設備やエンジンに大いに感銘を受け、イルモアがザウバー用のF1エンジンを手がけることが承認された[218]。1997年にメルセデス・ベンツ社がダイムラー・ベンツに再吸収された際、イルモアとの提携関係は引き継がれた。
- ^ ニーファーはモータースポーツ推進派だったが、「F1に参戦しない」と表明するよう親会社であるダイムラー・ベンツの強い意向が働いたため、そう発表せざるを得なかった[218]。同じタイミングでスポーツカー世界選手権からの撤退も発表している[W 95]。
- ^ F1参戦計画の撤回に際して、ダイムラー・ベンツはザウバーに対してAMGのようにメルセデス専門のチューナーにならないかと提案したが、ペーター・ザウバーは「サッカーチームにサッカー以外のことをやらせても、うまくいくはずがない」と言って断った[220]。
- ^ メルセデスからの資金提供は大きな額ではなく[221][218]、年間3000万マルク(約21億円)だったと言われている[218]。メルセデスから提供される資金のみではザウバーがプライベーターとして参戦する費用を賄うことはできなかったため、ザウバーは独自にスポンサーを開拓する必要があった[221][216]。これらの点について、ペーター・ザウバーはメルセデスは「十分以上の義理立てをしてくれた」と回想している[219]。
- ^ 上記の通り、2014年をもって供給契約を終了していたが、2021年からメルセデス・ベンツPUの供給を再び受けるようになった(カスタマー契約のため有償供給となる)。
- ^ 1970年代後半にBMWがF2で組んでいたマーチと協力して展開したもので、ブルーノ・ジャコメリ、マルク・スレール、エディ・チーバーらを発掘し、彼らはF1までステップアップしていった[232][233]。
- ^ フレンツェンの離脱後にフリッツ・クロイツポイントナーが起用されているが[232]、ニアパッシュによれば、クロイツポイントナーはル・マン24時間レース参戦のためのリザーブドライバーという位置付けで、フレンツェンの後任というわけではなかったという[234]。
- ^ アイルトン・セナの死亡事故が発生した1994年サンマリノグランプリで使用されたオペル・ベクトラAは、同車としては高性能な204馬力の2リッターターボ・4x4モデルだったが、十分な性能を持っていなかったとしてしばしば非難されている[236][W 110][W 111]。豪雨となった1994年日本グランプリで使用されたのはホンダのクーペであるプレリュード(4代目)で、これは問題なく役目を果たしたものの、同じ会社の最高性能車であるNSXを使用しなかったことには疑問の声も挙がった[W 112]。このように、性能や車種の選択で懸念や疑念を生むことがしばしばあった。
- ^ ダイムラー・ベンツが供給を開始する前の1996年4月のアルゼンチングランプリでは、ルノー・クリオがセーフティカーとして使用されている[W 116]。そのため、単独供給の開始時期について、1996年とする例と1997年とする例のどちらもある。
- ^ デ・パルマの1914年型グランプリカーもパーツの不足のため整備不能になり、一説には買い取られてヨーロッパに戻ったという。
- ^ この試みとは別にルドルフ・カラツィオラも1946年にW165を用いてインディ500に参戦しようとしたが、これはメルセデス車両を用いた参戦は実現しなかった(詳細は「ルドルフ・カラツィオラ#1946年インディアナポリス500」を参照)。
- ^ その後、このW154・9号車は複数のオーナーの手を経た末に、アメリカからヨーロッパへと戻った[240]。エンジンは、リーの死後、人手に渡っていたところでリッチー・ギンザーによって発見されてヨーロッパに戻った[240]。さらに後、W154のボディは元の形状に復元され、1980年代になって元のエンジンと組み合わされて再びひとつになるという数奇な運命をたどった[240]。
- ^ 実際には初年度の1995年シーズンから複数チームに供給された。
- ^ 当時、インディカーでイルモアエンジンのライバルはフォードのバッジを付けたコスワースだったが、イルモアが所在するブリックスワースとコスワースが所在するノーザンプトンは10㎞ほどしか離れておらず、パブでのちょっとした会話や噂などの形で情報漏洩は容易に起き得る環境だった[W 119]。イルモアで同エンジンの開発に関わっていた従業員たちは家族にもプッシュロッドエンジンの話をしないよう言い渡された[W 119]。
- ^ また、このエンジンは3,400cc(約209立方インチ)という、当時のインディカーとしては珍しい大きな排気量であることから「209」がしばしば強調される[W 119][W 121]。
- ^ カムシャフトを用いたエンジン(OHCエンジン)はカムシャフトとベアリングの摩擦が抵抗を生んでいたが、イルモアのプッシュロッドエンジンは摩擦による損失(フリクションロス)の低減に重きが置かれ、摩擦の発生個所が少なく抑えられていた[W 119]。それに加えて、ライバルのフォード・XBエンジンが750馬力の最大出力時に12,000回転/分だったのに対して、排気量の大きな500Iエンジンは9,800回転/分で最大出力の1,024馬力を出力可能だったので、レブリミットは10,500回転/分に設定していたほどで[W 117]、エンジンの回転数も低く、摩擦による抵抗が小さかったことが燃費に寄与したと言われている[W 119]。
- ^ ル・マンで起きた事故について、ドイツではテレビで報じられリアルタイムで論議されており[251]、ダイムラー・ベンツとしてもドイツの国民感情の高まりを無視できなくなっていた[252]。
- ^ C111シリーズは1960年代後半にルドルフ・ウーレンハウトがいた頃に着手された試験車両開発計画で、最終的には市販車に活用することを目的として、高効率なエンジンであるとか、空力的なドラッグの極小化を通じて燃費効率の高い車両を研究していた[256](結果的に市販車の域を超えた高性能車を開発していっていた)。そのため、グループCで掲げられたテーマは彼らの研究テーマと共通項のあるものだった。
- ^ ジーガー&ホフマンにフォールを紹介したのは、シュトゥットガルト大学で空気力学を研究していたユルゲン・ポットホフ(Jürgen Potthoff)である[259][260]。ジーガー&ホフマンからの問い合わせを受けた時点でポルシェ・956の開発に協力していたポットホフは協力することはできなかったため、元教え子のフォールをジーガー&ホフマンに推薦した[259][260]。
- ^ レオ・レスは1982年末にBMWにヘッドハントされ、この時点で既にダイムラー・ベンツを離れていたが、ザウバーのプロジェクトには有志として携わり続け、1985年にザウバーにテクニカルディレクターとして正式に移籍することになる[258]。
- ^ これはダイムラー・ベンツに限ったことではなく、1980年代のヨーロッパにおいて、本格的なムービングベルト付きの風洞を持っていることで知られていたのはイギリスのインペリアル・カレッジだけだった[268]。
- ^ この風洞もムービングベルトは備えていない。レーシングカー用のムービングベルト付き1/1風洞(100%風洞)は、15年後ほど経った後に初めて作られた[W 128]。
- ^ 続く1986年と1987年もチーム名にメルセデス・ベンツの名はないが、ボディには「MERCEDES」と書かれるようになった。
- ^ このレースの予選ポールポジションのタイムは3分14秒8。
- ^ 当時のシルバーストンは超高速サーキットであり、予選では、過給圧を高めることが可能なターボエンジン搭載車が自然吸気エンジン搭載車より有利だったにもかかわらず、大差で後れを取ってしまった。
- ^ ダイムラー・ベンツとしては1955年限りで撤退したが、1956年にプライベーターが300SLを走らせた例がある[275]。
- ^ ジャガーのグループCカーは、当時レース用としては唯一だったインペリアル・カレッジのムービングベルト付きの風洞を使って開発されていたため。
- ^ ポルシェをはじめ多くのチームは重量物を重心近くに集める考えからサイドラジエーターだったが、ジャガーはV12エンジンとのバランスを取る意味合いもあってXJR-6からフロントラジエーターの配置を採用しており[277]、C9はそれに続くものだった。
- ^ C9の実質的な最終年である1989年に、通常の選手権レース用のスプリント仕様(短距離仕様)とは別に、ル・マン用にロードラッグ仕様を用意することになる。
- ^ スーパーカップはグループCカーを使ったスプリントレースとして開催されていた選手権で、1986年から1989年までの4年間のみ開催された。当時の西ドイツの国内選手権に過ぎず(ドイツレーシングカー選手権の後継シリーズにあたる)、基本的にポルシェの独擅場だったが、ジャガーや日産自動車のような外国勢も参戦していた。
- ^ 1986年にザウバーにイヴ・サンローランを紹介した縁から、ニアパッシュはダイムラー・ベンツのザウバー担当だったヘルマン・ヒエレスと接触するようになり、ダイムラー・ベンツと接近していた[274]。
- ^ 1985年から1987年の間は単に「Sauber」というチーム名か、メインスポンサーのクーロスの名称で「Kouros Racing」としてエントリーを行っていた。
- ^ ザウバー・メルセデスは3台で1-2フィニッシュと5位フィニッシュを達成した。この結果について、ニアパッシュもペーター・ザウバーもこの年は勝てるとは考えておらず、目標は完走することだったと語っており[284][285]、ニアパッシュはこの結果は「ある意味で非常にラッキーだったんだろう」と後に語っている[284]。
- ^ ル・マン以外のレース距離は前年までは1000㎞のレースが多かったが、1989年から同選手権のテレビ放映権がF1と同じFOCAに委ねられた関係から、テレビ中継しやすいことを理由に480㎞くらいに短縮された。
- ^ 「C9」の次が「C11」となった正確な理由は定かでないが、2つの説が知られている。ひとつはワークス体制になってから新規に開発され、C9から大きな飛躍を遂げたことから「C111」へのオマージュを込めたという説である[292]。もうひとつは、より現実的な事情によるもので、ドイツ語では「C10」は「ツェー・ツェーン」(/t͡seː/ /tseːn/)となり発音に難が伴うため飛ばしたという説である[293][W 94]。
- ^ ペーター・ザウバーはこれは「ル・マンが世界選手権に加えられるべき」という意思表示としての出場拒否だったと述べている[284]。
- ^ デビッド・プライス・レーシング(DPR)の創設者でもある。
- ^ エアインテークは屋根の上に設ける方法もあるが、その場合、ドラッグが増えるという欠点があった[304]。加えて、C291は後述するようにエンジンのバンク角が180度であるため、インテークマニホールド(エンジン本体の吸気管)は低い位置にあり、配管が複雑になりすぎるため、インテークを車の屋根に置くという配置は現実的ではなかった[304]。
- ^ グループ内の組織再編により、1997年にメルセデス・ベンツ社はダイムラー・ベンツ社に再び吸収され、1998年にダイムラー・ベンツはクライスラーと合併してダイムラークライスラーとなった。
- ^ 決勝レースへの出場を認めたフランス西部自動車クラブ(ACO)もFIAの世界モータースポーツ評議会から追及を受けた[313]。
- ^ 前年に発売されたAクラス(W168)の転倒の危険発覚に伴うリコール騒動や、同じくMクラス(W163)やSクラス(W220)などの品質に対する酷評といった、ブランドイメージを毀損する出来事が相次いだ時期であり、タイミングも良くなかった。
- ^ サーキットに対しても、路面の傾斜や縁石など、高速走行中の車両に対して上下方向の安定を乱す要因となる箇所の見直しを求めた[310]。
- ^ 190シリーズは後継車からはCクラスとなって引き継がれていくことになる。1997年にさらに小型のAクラスが登場するまでは、Cクラスがメルセデス・ベンツのラインナップの中で最もコンパクトで廉価な車種だった。
- ^ ボディ後端には巨大な箱型スポイラーが装着されており、これはこの車両の大きな特徴となっている。これは市販車の時点で装着されているもので、シュトゥットガルト工科大学のリヒャルト・レープルとダイムラー・ベンツのルディガー・フォールが開発した[W 150]。
- ^ 戦前や戦後直後の少量生産の高級スポーツカーによる参戦については前述した各項目の通りである。
- ^ メルセデス・ベンツのみ翌年のエントリーをしていた[W 153]。
- ^ 車両もGT3はレーシングスポーツカーであり、ダイムラーの中では「#カスタマーレーシング」に属する活動ということが明言されている[W 157]。
- ^ 当初、チームの運営や車両の組立はHWAの本拠地であるドイツのアファルターバッハで行われていた[W 168]。HWAとの契約は2021年までのものだったため[W 169]、2020年末以降、アファルターバッハで行われていた活動はブラックリーに移されていった[W 168]。
- ^ 参戦初年度の2019年-20年シーズンは「Mercedes-Benz EQ Formula E Team」[W 170]。
- ^ ドライバーズランキングでは所属ドライバーのストフェル・バンドーンが2位を獲得[W 173]。
- ^ スポーツプロトタイプの300SL(W194)の市販バージョンで、メルセデス・ベンツを代表する車両のひとつとされる。
- ^ 市販車の300SLと300SEは4速まで。
- ^ 陸路でシンガポールまで行き、海路でパースに渡り、オーストラリア大陸を横断してシドニーを目指すというルートが設定された。
- ^ 同車を製造するための工場の新設・拡張も含めると、同車の開発から完成に至るまでにはおよそ20億マルクが投じられ、これはダイムラー・ベンツとしてはそれまで開発した車両の中でも最大の投資額だった[W 186]。
- ^ それまでのサファリラリーを中心とした参戦は若い層にアピールすることは目的に含まれておらず、販売地域拡大(認知度向上)が目的だったため、この点は問題にならなかった[278]。
- ^ 第1回大会の記録について、今日では自動車とオートバイは分けられて伝えられることもあるが、当時の公式記録の上では、クラス分けはされていない[W 187]。なお優勝は二輪のシリル・ヌヴーで、3位までをオートバイが独占している[W 187]。
- ^ その後のダイムラー・ベンツ社の歴史を通しても、航空機用エンジンから転用したケースを除くと、このエンジンの排気量は自動車用エンジンとしては最大の排気量だと言われている[346]。
- ^ バーマンの記録を破ったのは1919年2月12日にラルフ・デ・パルマのパッカード・905によるもので、この時はフライングキロメートルで241.2 km/hを記録して自動車の新記録を樹立した(これもAIACRは認定していない)。
- ^ このボディの開発にあたっては、フリードリヒスハーフェンにあるツェッペリンの風洞設備が活用された[W 199]。全長の違いはあるが、1936年のW25レコルトワーゲンのボディ形状は、1937年のW125レコルトワーゲン(初期型)にほぼそのまま流用されている。
- ^ 速度記録車ではなくレース用の車両。カーナンバー36のブラウヒッチュ車にはV型12気筒のM25DABエンジンが搭載された[348]。
- ^ 1936年、アヴスはベルリンオリンピックの自転車競技や競歩の開催地となったため、アヴスレンネンは開催されなかった。1937年はフォーミュラ・リブレで開催されることが1年前から発表されていたほか、休止期間を利用して、いわゆる「死の壁」として知られる巨大な43度バンクが建設されていたことから、同レースが高速化することは1936年の時点で明らかだった。
- ^ この1938年のW125レコルトワーゲン(改良型)のボディ形状は、1939年のW154レコルトワーゲン(フライングスタート仕様)にもほぼそのまま流用されている[W 203]。
- ^ メルセデスチームが速度記録会を「1月28日」に行おうとしているということを、アウトウニオンのローゼマイヤーが知ったのは1月25日だった[134]。
- ^ 氷を用いて冷却するという方法は(なぜか)アウトウニオンも同時に採用した[134]。
- ^ 2017年11月4日にケーニグセグのアゲーラRSがアメリカ合衆国ネバダ州の公道を封鎖して速度記録に挑戦し、フライングキロメートルで445.63 km/h、フライングマイルで444.76 km/hという新記録を樹立し、この時に初めてW125レコルトワーゲンの記録が破られた[W 205][W 206]。
- ^ 前年のローゼマイヤーの事故により、フランクフルト~ダルムシュタット間は高速走行には不適当だと判断された[W 204]。ベルリン~ライプツィヒ間の一区間として新設されたこの区間は、速度記録挑戦に適するよう建設された[W 204]。
- ^ ブダペスト近郊の直線道路。
- ^ 1935年9月3日にポンネビルで、イギリスのマルコム・キャンベルがブルーバード(約2,300馬力)で史上初の時速300マイル(約483 km/h)超えを達成している。これ以降は、自動車の最高速度記録(絶対記録)のほとんどはボンネビルで記録されるようになった(詳細は「自動車の速度記録」を参照)。
- ^ 通常のDB603エンジンの出力は2,000馬力程度とされている[W 211]。
- ^ 上記のW154レコルトワーゲンの速度記録挑戦にはこの区間が使用された[W 204]。
- ^ ドライバーは主任のリーボルト自身が務めた[354][W 219][W 216]。
- ^ ダイムラー・ベンツの子会社(当時。後のMBtech)が所有する巨大な円形のテストコースがある。
- ^ その後、シリッノは2022年にコッパ・トラックでもタイトルを1回獲得し、両選手権の通算による獲得回数を5回に伸ばしている(ジアフォーネもコッパ・トラックを含めると通算5回)。
- ^ ワンメイクというわけではなく、どの年もフォルクスワーゲンもエンジンを供給しており、2017年はフォルクスワーゲンエンジン搭載車でランド・ノリスがドライバーズチャンピオンになっている。
- ^ 11月2日のレースでは優勝した[W 31]。11月2日のレースは不成立だったとみなし、11月28日のレースを米国最初のレースとみなす説が比較的一般的である。こちらのレースではベンツ車は2位になっている[W 32]。
- ^ 書籍によっては1897年の出来事としている[365]。
- ^ 元々、マルセイユからモンテカルロまで走るレースだったが、参加者たちはモンテカルロに至る手前のラ・テュルビーの登り坂を自分たちの車では登り切れないことに気付いたため、レースは中止され、一行は坂を下って手前のニースまで引き返した[W 224]。そして改めて、ニース~ラ・テュルビー間でヒルクライムレースが行われた、という経緯である[W 224]。
- ^ 前方に行くに従いすぼまるウェッジシェイプ形状(楔型)になっている。装飾の特徴として、1910年から市販車でも使用されるようになった「スリーポインテッド・スター」がフロントラジエーター上部に配され、ラジエーターそのものもその後のメルセデスの市販車のフロントグリルで特徴となるV字形状となっている。
- ^ ダイムラーは輸出への影響を考えて同日開催のスペインのレースのほうが重要という考えを持っていたため、ドイツGPで車を走らせる予定はなかった[370]。メルセデスチームに所属していた新人カラツィオラからの嘆願を聞き入れて、個人としての資格で出場することを許可し、同様にローゼンベルガーにも許可を出し、2名のみ参戦した[370]。当日はフェルディナント・ポルシェやマックス・ザイラーらもサーキットを訪れ、個人的に協力して彼らを助けた[370][90]。
- ^ 最初の試作車が完成したのは1934年1月3日という説や[77]、M25Aエンジンが完成して車体に取り付けられた(走行可能になった)のは1934年2月半ばとする説もあるが[372]、ダイムラーは最初のテストが行われた日を1933年11月18日としているため[W 253][W 74]、この記事ではそれに沿って記載している。
- ^ 時期は1933年12月末という説もある[77][W 29]。
- ^ ダイムラー・ベンツのレースの研究開発分野で、このコンビによる管理と設計の二頭体制は戦争による中断を挟んで1955年まで続くことになる。
- ^ AMGは1967年に設立され、この時点ではダイムラー・ベンツと資本関係はない。
- ^ 1985年から1987年までの3年間はダイムラー・ベンツとしての公式なワークス活動ではなく、予算、人員ともに小規模な形で活動が行われた[219]。
- ^ 開幕前はAEGカラーの黒に近い濃紺を基調としたカラーリングだった[286]。
- ^ シーズン最終戦(第8戦)は10月だが、9月3日の第6戦終了時点で、5勝、2位1回を記録していたザウバーが有効ポイント制(6戦が有効)の関係でタイトル獲得を実質的に確定させた。
- ^ このタイミングで株式の持ち分を増やした背景として、前年にイルモアの共同創業者のポール・モーガンが死去したことが影響している[375]。
- ^ F1以外の事業(主に北米のインディカー用エンジンの開発)については創業者のマリオ・イリエンが引き取り、イリエンは再び「イルモア」(Ilmor Engineering Ltd.)の名で会社を設立した[W 273]。登記上は、メルセデス・ベンツ・ハイパフォーマンスエンジン社が旧イルモア以来の存続会社で[W 272]、この時にイリエンが設立したイルモアは新会社という扱いになる[W 274]。
- ^ メルセデスチームとともに獲得した分とは別に、ハミルトン自身は2008年にマクラーレン・メルセデスでもドライバーズタイトルを獲得している。
- ^ F1コンストラクターズタイトルは1958年に創設されたものであるため、1954年・1955年の参戦時にメルセデスはチームとしてのタイトルを獲得していない。
- ^ 2020年12月時点で、株主はダイムラー(当時。現在のメルセデス・ベンツ・グループ社)、トト・ヴォルフ、イネオスの3者で、株式は均等に保有されているとされる[W 280]。
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- 1 モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツとは
- 2 モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツの概要
- 3 最初期のレース車両
- 4 ゴードン・ベネット・カップ(1903年)
- 5 グランプリレース黎明期(1906年 - 1914年)
- 6 戦間期のグランプリ・白の時代(1921年 - 1931年)
- 7 レース活動の休止(1932年 - 1933年)
- 8 「シルバーアロー」時代(1934年 - 1939年)
- 9 フォーミュラ1
- 10 インディカー
- 11 スポーツカーレース
- 12 ツーリングカーレース
- 13 電気自動車
- 14 ラリー
- 15 最高速度記録
- 16 ヒルクライム
- 17 トラックレース
- 18 その他のカテゴリー
- 19 沿革
- 20 関連組織
- 21 脚注
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