オットー・メルツとは? わかりやすく解説

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オットー・メルツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 08:13 UTC 版)

オットー・メルツ
Otto Merz
1928年ドイツGPドイツ語版で2位表彰台を獲得したメルツ
基本情報
国籍 ヴュルテンベルク王国 ドイツ帝国) → ドイツ国
生年月日 (1889-06-12) 1889年6月12日
出身地 ヴュルテンベルク王国 エスリンゲン・アム・ネッカー
死没日 (1933-05-18) 1933年5月18日(43歳没)
死没地 ドイツ国 ベルリン

オットー・メルツOtto Merz1889年6月12日 - 1933年5月18日)は、19世紀末から1920年代のドイツのレーシングドライバーである。ダイムラー社英語版(Daimler Motoren Gesellschaft、DMG)のワークスドライバーである。

経歴

1889年、ドイツ南部シュヴァーベン地方のエスリンゲン・アム・ネッカー[W 1]、錠前屋のカール・ゴッドローブ・メルツの子として生まれた。

1906年にダイムラー社(DMG)に整備士として雇われ、テオドール・ドレハー(アントン・ドレハー英語版の子)や、実業家のヴィリー・ポージ英語版のような裕福な車好きの運転士兼整備士を務めた。

サラエボ事件

地図の2の地点で爆弾が爆発した。

1914年6月28日、オーストリア大公フランツ・フェルディナント夫妻がサラエボを訪れた際、メルツは大公の車列に加わっていたアレクサンデル・フォン・ボース=ヴァルデック(Alexander von Boos-Waldeck)の運転手を務めていた。

大公の暗殺を図って車列を狙ったネデリュコ・チャブリノヴィッチ英語版が投げた爆弾は、大公の車には当たらず、メルツが運転する車両の下で爆発した。これにより、ボース=ヴァルデックや沿道の多くの見物客たちが負傷することとなり、メルツはその当事者となる。

大公の暗殺計画は2段階あり、同日、大公はガヴリロ・プリンツィプの銃撃により死亡した。

レースにおける経歴

1921年クラウゼンパス

第一次世界大戦の終戦後、メルツはダイムラーでレーシングドライバーとしてのキャリアを開始した。

1924年にソリチュード・サーキット英語版で開催されたレースやクラウゼンパス・ヒルクライムドイツ語版で勝利した。

シュツットガルト近郊のソリチュードでは1925年と1926年にはソリチュード宮殿英語版周辺の閉鎖路でレースが開催され、メルツは両年を連覇した。1926年のレースは、同チームのアルフレート・ノイバウアーが色旗による指示を始めたレースとしても知られる[1]

以降のメルツのレース参戦は散発的なものとなり、主にリザーブドライバーとしてレース中に交代の必要が生じた場合の参戦が多くなった。

死亡事故

偉大なるドライバーのひとり、 古強者 ふるつわもののひとり、彼はなんという男だったろう! 子供のように純粋な心を持った男。(中略)みんながレースの危険性について話し合っていると、彼はきまって笑いとばし、いつか彼の石頭にぶち割られる 里程標 マイルストーンが気の毒だと言うのだった。その彼が今、カーブから永遠の闇の中へと放り出されてしまった。[2]

—アヴスレンネンのラジオ中継でメルツの死を知ったルドルフ・カラツィオラ

1933年、この時点でメルツはレースドライバーとしてはほとんど引退しており、2年ほどレースから遠ざかっていたが、5月末のアヴスレンネンドイツ語版にドライバーとして参戦することになる[3][4]。チーム監督のノイバウアーはこのレースには一時的にチームを離れていたエースドライバーのルドルフ・カラツィオラを呼び戻して走らせることを考えていたのだが、カラツィオラは4月末に開催されたモナコグランプリ英語版で重傷を負ったため、それは不可能となった[3][4]。そのため、メルツは地元レースを走りたいと要望し、チームとしてもその要望を受け入れたという経緯である[3]

イベントの初日、雨の中で行われた練習走行で、メルツの車両は濡れた路面で横滑りしてひっくり返り、この事故によりメルツは死去した[5][W 1]

人物

力自慢の巨漢であり、シュヴァーベン地方出身であることから「シュヴァーベンの熊」(Swabian bear)とあだ名された[4]。メカニックがタイヤ交換する際に車両を持ち上げるであるとか[2]、椅子に座っているチームメイトを椅子ごと持ち上げるであるとか、素手で釘を叩いて厚さ2-3cmの木製テーブルに貫通させるといったことができたという[6]

メルツが第一線を退いた後にメルセデスチームのエースとなったカラツィオラにとって、メルツはチームに加入した時の先輩にあたり、1924年当時のチームでよくしゃべりよく笑うドライバーの筆頭だったと述懐している[6]。メルツの死は骨折して療養中だったカラツィオラにも大きな衝撃を与えた[2][注釈 1]

脚注

注釈

  1. ^ カラツィオラは自伝の中で他の先輩ドライバーたちの死にはそれほど触れていない一方、メルツの死については現場に居合わせたわけでもないにもかかわらず詳述している。

出典

書籍
  1. ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.114
  2. ^ a b c カラツィオラ自伝(高斎1969)、「11 入院」 pp.65–69
  3. ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.133
  4. ^ a b c Hitler's Motor Racing Battles(McGeoch 2008)、p.88
  5. ^ Hitler's Motor Racing Battles(McGeoch 2008)、p.89
  6. ^ a b カラツィオラ自伝(高斎1969)、「5 シャーリー」 pp.29–35
ウェブサイト
  1. ^ a b Merz, Otto” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。

参考資料

書籍

外部リンク

  • Otto Merz - Mercedes-Benz Public Archive (英語)



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