シルバーアロー
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シルバーアロー(ドイツ語: Silberpfeil, 英語: Silver Arrows)は、1934年から1939年までの期間にヨーロッパの自動車レースを席巻したメルセデス・ベンツとアウトウニオンに付けられたニックネームである。両社のレース用車両はともに銀色の車体をしていたことからそう呼ばれた。1950年代以降もこの呼称はメルセデス・ベンツのレース用車両にしばしば用いられ、用語として定着している。日本語ではドイツ語に基づいた「シルバープファイル[1]」ではなく、英語に基づいた「シルバーアロー」の呼称が一般的に用いられているため、本記事もそれに倣う[表記の注釈 1]。この記事では用語の概要と、メルセデス・ベンツにおける起源を中心に述べる。
注釈
出典
- ^ 1933年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権を獲得して自動車を振興する政策や軍需製品の注文を増やしたことで、経営が安定する目途が立ったという背景がある。
- ^ 1934年アイフェルレンネンのブラウヒッチュ車と同じカーナンバー20を付けている。
- ^ ノイバウアーの自伝の英訳版は原書に忠実な翻訳にはなっておらず、原書から削っているだけではなく、原書に存在しない文章が無許可で差し込まれることもされている[W 4]。原書の実際の執筆を担当したハーヴェイ・ローウェは、それを知った時には激怒したが、法的措置を取るには遅すぎたためそのままになったと後に語っている[W 4]。
- ^ アイフェルレンネンで走行した車両も空気取り入れ口を有している。
- ^ 第二次世界大戦後のフォーミュラ1などの規則では、「最低重量」のみを設定することが多くなるが、1930年代以前のAIACRによるグランプリ規則では「最大重量」を定めることはよくあることだった。
- ^ 3名のレギュラードライバーの内、エースのルドルフ・カラツィオラは練習走行には参加したが、前年に負った足の怪我が完治しておらずニュルブルクリンクのレースを走り切ることは難しいとして参戦を辞退した[5]。そのため、このレースにはダイムラー・ベンツからは2名のみの参戦となった。
- ^ アヴスレンネンで銀色だった車両を、翌週のアイフェルレンネンであえて白く塗装したのは、それが本来のナショナルカラーであり、見栄えをよくするためにノイバウアーが命じたものだったとされる[W 5]。アヴスレンネンにチームを参戦させることに失敗したノイバウアーは、このアイフェルレンネンへの参戦には自身の進退がかかっており、万全を期すための気遣いだったが、結果として裏目に出ることになる[W 5]。
- ^ これは自動車歴史家のカール・ルドヴィクセンが『Mercedes-Benz Quicksilver Century』(1995年刊)で書いた話で、ルドヴィクセンはその話を「良い情報源」(good source)から得たと書いてるが、具体的な出典は明かしていない[W 3]。ルドヴィクセンは触れていないが、1934年当時の「フェラーリの監督」はエンツォ・フェラーリである。
- ^ ウーレンハウトは1931年からダイムラー・ベンツで働いており、アイフェルレンネンに出向いていた可能性はある[W 3]。
- ^ 後に編集者となり、モトール・プレッセ・シュトゥットガルトを立ち上げた。同社は雑誌『アウト・モトール・ウント・シュポルト』を刊行している。
- ^ ノイバウアーの自伝には1933年トリポリグランプリについての記述に事実との明白な齟齬があり、この主張はその点に立脚している[W 3]。しかし、これは当時の自伝ではよくある「エラー」であり、それをもって自伝全体の信憑性を疑うのはいかがなものかという擁護もある[W 3]。
- ^ 1933年トリポリグランプリの記述も、異論を唱えることのできる当事者が死去している事柄について記述しており、この点もノイバウアーの自伝が批判を受けた原因になっている[W 8]。
- ^ 前提として、アイフェルレンネンは当初は750 kgフォーミュラの規定で開催される予定だったが、参加台数が集まらなかったため、フォーミュラ・リブレで開催することに変更されたという経緯がある。
- ^ メルセデスチームは1914年フランスグランプリを圧勝したという栄光があり、そのためフランスグランプリで栄光の再現を狙った。1954年に同チームが復帰戦としてフランスグランプリを選んだのも同じ背景事情によるものである[13][14][7][W 11]。
- ^ このレースの出場を拒否した場合、ノイバウアーは更迭されていたと考えられており、非選手権レースではあるがノイバウアーにとっては大きなプレッシャーがかかっていた一戦だった[W 5]。
- ^ 『アウト・モトール・ウント・シュポルト』はカラツィオラの車両について、ノイバウアーの自伝『Männer, Frauen und Motoren』に「そこにあった車は、小さく、そして白かった。」(Der Wagen stand da, klein und weiß.)という記述があるとしている[W 6]。実際、白い塗装がされているように見える写真も存在する[W 15](この写真の車両はカラツィオラの白い帽子と比べると明らかに銀色だとする見解もある[W 16])。翻訳による違いについて、ノイバウアーの自伝の原書はドイツ語で著されたが、橋本茂春による日本語訳は英語版から日本語に翻訳したものであるためか、上記の箇所は訳出されておらず、アヴスレンネンのカラツィオラ車のことは「銀のような光を放つ軽合金ボディがきれいだった」[5]と描写されている。アヴスレンネンのカラツィオラの車両はカラツィオラの自伝(高斎正による日本語訳)では「小型で白い車だった」と書かれている[19]。この箇所は英訳版でも「The car was there too, small and white,」と書かれている[W 3]。
- ^ アヴスレンネンに持ち込まれた3台全てがそうだったのかは不明瞭だが、銀色のボディをしたW25が持ち込まれていたことは当時の写真や報道記事から明らかだった[W 6]。参考のため、当時の写真を例示する:[W 17][W 18][W 19]
- ^ これらの写真のいくつかは出典[W 6]の中でも示されている。他の写真も存在する[W 21]。
- ^ 2009年、グラスが遺した膨大な写真はダイムラーによる資金援助を受けてデジタル化が進められ、同社でもアーカイブされることになった[W 22][W 20][W 6]。
- ^ RacingOn No.478 Mercedes' C、「C292 走れなかった“最終走者”」 pp.80–87
- ^ モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「ゴードン-ベネット・トロフィー」 pp.39–48
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.26
- ^ a b MB 栄光の歴史(ハイリッグ/増田2000)、p.40
- ^ a b c MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「8 レース監督の非情と友情」 pp.71–81
- ^ a b c d e f g h i MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.145
- ^ a b c d e f g h i シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「12 750kgフォーミュラW25の誕生」pp.70–74
- ^ a b c Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.154
- ^ a b c d MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.153
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.32
- ^ a b c d e Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.158
- ^ Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.156
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.135
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.22
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.144
- ^ RacingOn No.478 Mercedes' C、「シルバーアローのはじまり」 pp.28–29
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.36
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.143
- ^ カラツィオラ自伝(高斎1969)、「13 カムバック」 pp.76–80
- ^ Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.155
- ^ a b MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「6 不吉な予言」 pp.53–59
- ^ Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.157
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- ^ “Überragender Sieg beim Internationalen Avus-Rennen 1932” (ドイツ語). Mercedes-Benz Group Media (2019年9月13日). 2023年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
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- 1 シルバーアローとは
- 2 シルバーアローの概要
- 3 アウトウニオンにおける扱い
- 4 脚注
- 5 外部リンク
シルバーアロー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 18:35 UTC 版)
「アルフレート・ノイバウアー」の記事における「シルバーアロー」の解説
世界恐慌の影響でレース活動を停止していたダイムラー・ベンツは、1934年の新フォーミュラ(750kgフォーミュラ)の導入に合わせてレースに復帰する。ノイバウアーは再びチーム監督となり、これがノイバウアーにとって最良の時代とされる「シルバーアロー」時代(1934年 - 1939年)の始まりとなる。 1934年6月、新規定に合わせて製作された新型車両メルセデス・ベンツ・W25はニュルブルクリンクにおけるアイフェル・レンネン(英語版)でデビューレースを迎える。しかし、レース前日になってW25の重量が751kgあり、規定を1kgオーバーしていることが判明した。ノイバウアーと、ドライバーのブラウヒッチュは、当時のメルセデスがまとっていた白い塗装を研磨して剥がすことを思いつき、W25はその塗装を全て剥がされ、アルミニウムの銀色の素地を露出させた姿となった。これが、シルバーアローの始まりとなる(詳細は「シルバーアロー」を参照)。 「シルバーアロー」時代は、ドイツ車がヨーロッパのグランプリを席巻した時代でもあり、優勝は常にメルセデス・ベンツとアウトウニオンによって争われた。メルセデスチームにとって最も輝かしい時代となったこの時期、ドライバーとしてカラツィオラ、ブラウヒッチュに加えて、ヘルマン・ラング、リチャード・シーマンを擁し、ノイバウアーは栄光の時代を支え享受した。 しかし、第二次世界大戦の勃発(1939年9月)によりレース活動は全て停止となり、戦時中の1939年から1945年にかけて、ノイバウアーはダイムラー・ベンツの修理部門の責任者を務めた。当初、北アフリカ戦線に展開していたドイツアフリカ軍団で飛行機修理にあたるため、オランダで研修を受けていた。しかし、着任する予定だったアフリカの部隊が全滅してしまったためアフリカに渡ることはなく、東部戦線の前線近くに複数の修理工場を設置するための管理業務をベルリンから行うようになった。ドイツが敗戦すると収容所に入れられたものの、2週間で釈放された。
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シルバーアロー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 17:32 UTC 版)
「ダンジョンズ&ドラゴンズ シャドーオーバーミスタラ」の記事における「シルバーアロー」の解説
アローの強化版。ボスに対しては威力が落ちる。エルフのみバグで空中で撃つと使用数が減らない。
※この「シルバーアロー」の解説は、「ダンジョンズ&ドラゴンズ シャドーオーバーミスタラ」の解説の一部です。
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