「シルバーアロー」時代(1934年 - 1939年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「「シルバーアロー」時代(1934年 - 1939年)」の解説
「シルバーアロー」時代の時系列1934メルセデス・ベンツ、レースに復帰。W25完成「シルバーアロー」伝説の始まり (6月)速度記録への挑戦開始 (10月) 1935カラツィオラがタイトル獲得 (9月) 1936W25ショートカーの失敗による不振の一年 1937W125による圧勝。カラツィオラがタイトル奪還 1938公道最高速度記録樹立 (1月)W154登場。カラツィオラがタイトル連覇 1939最後のシーズンシーマンの死亡事故 (6月)ラングによるヒルクライム制覇 (8月)第二次世界大戦開戦によるレース中断 (9月 - ) 1934年に自動車レースに復帰したメルセデスチームは強力な「シルバーアロー」を擁し、アウトウニオンとともにヨーロッパ中のレースを席巻した。ドイツ勢のこの活躍は第二次世界大戦が勃発してレース自体が中止される1939年9月まで続くこととなる。 この時期のメルセデスチームは組織としても当時としては他に類を見ず、本社では総勢300名のエンジニアがレース用車両の開発にあたり、サーキットでは軍隊式に訓練された50名のメカニックたちが作業にあたり、「監督」ノイバウアーの下でドイツ機甲師団のように統率されたチームがヨーロッパ、アメリカ、北アフリカなどの各地に遠征し、優勝カップをシュトゥットガルトに持ち帰った。 この期間、メルセデス・ベンツとアウトウニオンがあまりにも強力だったため、イギリス、フランスの自動車メーカーは競争について来られず早々に脱落し、最後まで奮闘していたイタリアのアルファロメオも1938年には選手権で0勝となるほどにドイツ勢が圧倒的な戦績を収めた。自動車レースは極端にプロ化した状態に変質し、1920年代のようにプライベーターが入り込めるような余地は全くなくなっていった。 この項目では、ドライバーと各シーズンについては大略を記載し、車両については概要とそれぞれの車両間で関連する部分を中心に記載する。この時期のメルセデスチームは、グランプリレース以外に、最高速度記録やヒルクライムにも参加した。それらについては別項で扱う。(→#最高速度記録、#ヒルクライム)
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