「監督」ノイバウアー
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「アルフレート・ノイバウアー」の記事における「「監督」ノイバウアー」の解説
1923年春、ポルシェがシュトゥットガルトのダイムラー(1926年設立のダイムラー・ベンツの前身)に技術部門の長として移ったため、ノイバウアーもダイムラーに移籍した。 ドライバーとしていくつかのレースに参戦したノイバウアーは、自身の凡庸な走りとチームメイトであり当時の第一人者であるクリスチャン・ラウテンシュラガー、クリスチャン・ヴェルナーらの見事な走りとの違いに次第に打ちのめされていくこととなる。本人が失意を感じる一方、上司であるポルシェとダイムラー社の取締役であるヴィルヘルム・キッセルはノイバウアーにレーシングチームを円滑に管理運営するマネージメント能力という別の才能を見出していた。 そして、1926年7月にアヴスで開催された第1回ドイツグランプリがノイバウアーにとっての転機となって訪れる。このレースにメルセデスチームから出場した新人ルドルフ・カラツィオラは、初めて挑んだビッグレースで豪雨の中で見事な走りを見せて優勝を果たす。ノイバウアーはそれまで同社の後輩ドライバーとして侮って見ていたカラツィオラの走りによってドライバー引退を決意させられるとともに、彼がレース途中でピットインするまで自分がトップを走っていることを知らなかったという話を聞いてひとつの啓示を得ることになる。「チーム監督」(Rennleiter、レンライター)というポジションの着想である。 1926年当時、レース中のドライバーはひとたびスタートすればチームからも隔絶され、文字通り孤独な戦いを強いられていた。そのため、自分自身が何番手で走っているのかということすらよく把握できず、自分が優勝したことをレース後に知ってドライバー本人が驚いた、ということすらしばしば起こるほどであった。そうした状況を是正するため、ノイバウアーはレースの状況やドライバーが取るべき戦術判断を、色のついた旗や板(後にサインボードと呼ばれることとなる)を用いてドライバーに伝達する仕組みを考案した。 この方法は、1926年9月12日にシュトゥットガルトに程近いソリチュード・サーキットで行なわれたレースで初めて用いられた。このレースの主催者(ドイツ自動車連盟の会長)は、ノイバウアーがドライバーに指示を与えるためレーストラック上に立つことについて、その「ふざけた行動」が他のドライバーたちを苛立たせているとして、注意を与えた。それに対するノイバウアーの説明は「自分は監督だから」という、当時の人間にとっては不可解なものだった。しかし、この年に発足した「メルセデス」チームのメルセデス・ベンツ・SS、同SSKはカラツィオラによって駆られ、瞬く間に多くの勝利を得た。 チームにおけるノイバウアーの貢献は、その卓越した戦術判断のみによるものではなく、その完璧主義によるところも大であった。ノイバウアーはピットクルーにも完璧を求め、軍隊さながらにピットクルーを鍛えた結果、メルセデスチームは他チームに対してピット作業においても常にアドバンテージを持つようになった。
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