「目的は正しかった、しかし標的は移動した」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:28 UTC 版)
「エドセル」の記事における「「目的は正しかった、しかし標的は移動した」」の解説
エドセルはマーケティングの大惨事として有名である。実際に「エドセル」という名前は、製作側が「完璧」であると信じた製品又は製品アイデアにおける、実際に市場に送り出された際に生じた大規模な商業的失敗と同義語となってしまった。エドセルと同様の不運な製品は、しばしば「○○のエドセル」と呼ばれる事がある。フォード・モーター自身がエドセルの25年後に発売したフォード・シエラは、最終的な販売面での成功にも関わらず、初代モデルの急進的なスタイリングに初期の購入者は少なからず反感を覚え、その様子がエドセルと比較されたという。エドセル計画の無残なまでの破綻の経過は、企業経営者に対して販売戦略の失敗が商品の売れ行きにどれ程の悪影響を及ぼすかについての明快な教材を与えた。エドセルの失敗が非常に悪い主な理由としては、4億米ドルを投資したフォード・モーター自身が、製品の開発から車両の設計、製造、ディーラー網の設立に至るまでの間に失敗が起こる事を全く予期していなかった点にある。信じられない事に、フォード・モーターはそのような投資を行う事が賢明か否かを判断しようともせずに、新製品ラインの開発に4億米ドルもの投資を行ってしまった。 プレスリリースでの広告キャンペーンでは「もっと貴方のアイデアを。」と宣伝され、雑誌のティーザー広告では、車体全体の写真を非常にぼやけたものとしたり、車体が紙や幌で包み込まれていたりしていて、実際にフォード・モーターはエドセルの初期の開発段階や、新しい販売店へ車両を出荷する段階までに、販売店の真の消費者に対してエドセルの独特なスタイリングコンセプトを「テスト販売」した事が一度もないままだった。エドセルは販売店に出荷される際にも店頭在庫車に至るまで厳重に梱包されたままだった。消費者は、発売日に店頭を訪れるまでエドセルのスタイリングの全貌を知る術もなく、店頭で目の当たりにした実物を前に驚きと共に落胆の眼差しを向ける事になった。アイオワ州エイムズの地元紙、エイムズ・トリビューン(英語版)の1957年9月5日付けの記事では、エイムズのエドセル販売店には発売日に1万人もの群衆が押し寄せた事が記されている。当時のエイムズの人口は約2万7千人である事から、人々のエドセルへの関心が如何に高かったかが窺い知れる。また、全米では延べ250万人もの人々が発売日にエドセル販売店を訪れたとされているが、1958年式の販売台数が7万台足らずである事から、来場者が実際に成約に至った率は3%にも満たなかった事になり、人々がエドセルに対して抱いた失望の度合いも窺い知る事ができる。発売日の翌月に放送されたエドセル・ショウはフランク・シナトラやルイ・アームストロングをはじめとする、当時の米国の最高の歌手やミュージシャンを集め、ポップスの歌唱やジャズの演奏の合間にエドセルの紹介を行う番組構成で、全米視聴率は実に30%に達し累計で5000万人が視聴し、同年でも最高のミュージカル・ショウ番組であるとされ、第10回エミー賞(英語版)にもノミネートされたが、視聴者からもその程度の受け止められ方しかされず、「シナトラのようにエドセルに乗るか?と問われたら、ノーと答えるだろう。」という冗談すら語られる程であった。 一般市民はエドセルが何であるかを理解する事も難しかった。主にフォードやマーキュリーの市場価格セグメント内で、エドセルの価格設定を誤ってしまったためである。理論的にはエドセルはフォード・モーターのマーケティング計画の中ではフォードとマーキュリーの間に配置されるブランドとして考案された。しかし、1958年にエドセルが発表された時、エドセルで最も安価な車種であるレンジャーは、フォードで最も高価で高級なトリムレベルのフェアレーンよりも249米ドル高く、マーキュリーで最も安価なマーキュリー・メダリストのベースモデルより63米ドル安い範囲の価格であった。ただし、フェアレーンとレンジャーは一見するとある程度の価格差が有るように見えるが、実際には上位モデル扱いのフェアレーン500が車体形状により価格にかなりの幅があり、最も高価なフェアレーン500はレンジャーのベースモデルよりも逆に15米ドル高くなった。エドセルの中間価格帯であるペーサーとコルセアはマーキュリー・モントレーやメダリストよりも高価であった。最上位のエドセルであるサイティーション・4ドアハードトップは下記の価格表で示すとおり、中間価格帯のマーキュリー・モントクレア・ターンパイク・クルーザー(英語版)に正しく競合するように価格設定された唯一の車種であったが、不幸な事に1958年のフォードには革新的な電動ハードトップを備えたフェアレーン500・スカイライナーと、女性向けスペシャリティカーとして企画され、その年のモータートレンド・カー・オブ・ザ・イヤー(英語版)にも選出されたサンダーバードという特別なモデルが追加されており、ペーサーやサイティーションの最上位モデルとほぼ変わらないかそれを上回る価格設定がされていた。 1958年のフォード・モーターの乗用車車体価格表(FOB)構成 フォード エドセル マーキュリー リンカーン コンチネンタル マークIII(ドイツ語版) $5,825–$6,283 プレミア(英語版) $5,318–$5,565 カプリ(英語版) $4,803–$4,951 パークレーン(英語版) $3,867–$4,118 サンダーバード(英語版) $3,631–$3,929 サイテーション $3,500–$3,766 モントクレア ターンパイク・クルーザー(英語版) $3,498-$3,577 コルセア(英語版) $3,311–$3,390 モントクレア(英語版) $3,236-$3,536 フェアレーン 500 スカイライナー(英語版) $2,650–$2,942 ペーサー(英語版) $2,700–$2,993 モントレー $2,652–$3,081 フェアレーン / フェアレーン 500(英語版) $2,235–$2,499 レンジャー(英語版) $2,484–$2,643 スタンダード(ドイツ語版) $2,547–$2,617 カスタム / カスタム 300(英語版) $1,879–$2,157 上記の価格表は各部門の車種の基準価格を示したもので、実際には税金の賦課や、強力なエンジンや多段数の自動変速機、カーエアコンなどの注文装備(英語版)を発注する事で、全体的に上振れする事に留意されたい。 エドセルは単に自らの姉妹部門の車種との競合に晒されたばかりでなく、購買層もエドセルが何を想定していたのか、例えばマーキュリーよりも上位なのか否かすらも正確には理解できなかった。エドセルはフォードの上、マーキュリーの下という位置付けにもかかわらず価格設定があいまいで、実際にはマーキュリーの中・下位モデル、フォードの上級モデルと殆ど変わらぬ価格で、差別化に失敗していた。これら販売戦略のまずさに、デザインと品質の問題が重なり、エドセルの販売実績は低迷した。 エドセルが正式発表され、一般公開された後、エドセルは自動調整機構付きリアブレーキやシャーシへの自動給脂装置(英語版)など多くの新機能を提供したにも関わらず、試作段階の広報ではそれが提示される事はなかった。フォード・モーターの事前の市場調査では、これらの機能やその他の機能によって、Eカーが自動車購買者にとってより魅力的な商品となる事が示されていたが、エドセルの販売価格は購入者が快く支払える価格帯を上回った。多くの潜在的な購入層はエドセルの基準価格のみを見てディーラーを去り、同じフォード車ならばフォード部門の最上位の車種をフル装備で購入するか、マーキュリーの下級車種を基準価格で買う事を選んだとされる。 1958年のフォード・モーターのステーションワゴン車体価格表(FOB)構成 フォード エドセル マーキュリー コロニーパーク 4ドア9人乗 $3,775 ボイジャー(英語版) 2ドア6人乗-4ドア9人乗 $3,535–$3,635 バミューダ(英語版) 4ドア9人乗 $3,212 コミューター(英語版) 4ドア9人乗 $3,201 バミューダ 4ドア6人乗 $3,155 コミューター 2ドア6人乗 $3,035 ヴィレジャー(英語版) 4ドア6-9人乗 $2,933-$2,955 ラウンドアップ(英語版) 2ドア6人乗 $2,841 カントリー・スクワイア 4ドア9人乗 $2,794 カントリー・セダン(英語版) 4ドア6-9人乗 $2,557–$2,664 デル・リオ(英語版) 2ドア6人乗ロングボディ $2,503 ランチ(英語版) 2ドア6人乗 $2,397–$2,451 しかし、1958年のステーションワゴンの価格設定を見ると、上記の通りバミューダとコミューターの4ドア9人乗り車を除いては、エドセルのステーションワゴンはフォードとマーキュリーの価格帯と直接競合する事を避け、エドセル計画の当初の構想通り「マーキュリーとフォードの間を埋める」価格帯を形成できているが、販売台数は最も売れたヴィレジャーの4ドア6人乗りでも2,300台に届かない数で、車種毎に1万3千台から6万8千台前後の売り上げを残したフォードのワゴンはおろか、ワゴンとしてはかなり高価となる為、売れ行きがフォード程は伸びにくいマーキュリーのワゴンの総販売台数にも遠く及ばなかった事から、価格設定の誤りがエドセル低迷の直接の要因ではなく、単に車の完成度の欠如に因るものであるという論を補強するものとなっている。 ちなみに、1958年の一時的な不況を受けて販売が急伸したとされるフォルクスワーゲン・タイプ1は1958年式の希望小売価格(MSRP)が$1,545、同年に日本より初めて北米輸出が始まった日本車の一つであるダットサン・1000は1958年式のMSRPが$1,606だった。当時のアメリカ車にはこのような小型小排気量の輸入車に対抗するコンパクトカーが各社のラインナップに存在しなかった。アメリカ車においてこの状況が解消されるのは、AMCのランブラー・アメリカン(英語版)(1958年)、スチュードベーカー・ラーク(英語版)(1959年)、そしてビッグスリーが先達の車両を十分リサーチした上で1960年に相次いで北米市場に投入したプリムス・ヴァリアント、シボレー・コルヴェア、フォード・ファルコン(英語版)を待たねばならなかった。いずれの車両もベースモデルのエンジンを直列6気筒や水平対向6気筒までランクダウンさせる事で2,000米ドルを切る低価格を実現しており、エンジン性能で劣る日本車や欧州車、燃費や小回りで劣るV型8気筒のフルサイズ米国車にとって強力な対抗馬となった。 翌1959年のエドセルはサイティーションとペーサーを廃止し、中級価格帯のコルセアについては大幅な値下げを敢行した。しかし、これは実態としてはペーサーをコルセアに名称変更して存続させたと考えた方がより正確である。1959年のエドセルはマーキュリーベースの車種が全廃され、フォードベースの車種のみが残ったとされている為である。1959年式コルセアは$2,812-$3,072の範囲となっており、1958年式ペーサーよりも僅かに上方の価格帯が設定されたが、不幸な事にこの年のフォード部門は最廉価のカスタムを廃止し、カスタム300とフェアレーンの価格を全体的に引き上げてレンジャーに近づけた上、フォード・ギャラクシーをフェアレーン500の更に上位のモデルとして追加してしまった。1958年式フェアレーン500から豪華版コンバーチブルのサンライナー、電動ハードトップのスカイライナーを引き継いだ1959年式ギャラクシーは各型合計46万台余りを売り上げる空前のヒット作となり、1959年式エドセルはおろか、1959年式マーキュリーの下位モデルの売り上げをも侵食する程の結果を残した。結局、この年のエドセルは1958年不況の反動から自動車業界全体が約29%の売り上げの回復がもたらされたにも関わらず、1958年よりも却って販売台数が低下した。その一方でサンダーバードは前年より順調に販売台数を伸ばし、エドセルの価格帯より遙かに高価であるにも関わらず、単一の車種でエドセル全体をも上回る6万7千台を販売した。こうした結果も、1958年アイゼンハワー不況がエドセル低迷の直接の要因ではなく、単に車の完成度の欠如に因るものであるという論を補強するものとなっている。そして1960年、最後のエドセルは名実共にフォード・ギャラクシーの兄弟車種のような扱いにまで墜ちていった。
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