「シルバーアロー」のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)
「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「「シルバーアロー」のその後」の解説
1939年9月に始まったポーランド侵攻により、ドイツは当初優勢に見えたが、ノイバウアーはレース転戦で培った国際感覚と持ち前の直観から、このまま戦況が推移すればドイツも無傷では済まないと考えた。特に、ドイツ有数の軍需企業でもあるダイムラー・ベンツの工場はいずれ空襲にあう恐れがあると考えたことから、レーシングカーの疎開を計画する。レース再開に備えて1939年時点で現役で使用していたグランプリカーのW154とW165、ヒルクライム仕様のW125の避難を優先させ、同型車を2台ずつペアにして、ルーマニア、チェコ、ポーランド等の東欧諸国に送り、密かに隠した。 その後、ノイバウアーが抱いた不安は現実になり、シュトゥットガルトは戦火に焼かれ、ダイムラー・ベンツのウンターテュルクハイム工場(本社工場)は戦時中にその施設のおよそ80%を失うこととなった。 車両を速やかに疎開させたノイバウアーだったが、ノイバウアーにも予測できなかったことが2つあった。ひとつはヨーロッパにおける戦争はフランス方面(西部戦線)が中心となると考えたことであり、もうひとつは、開戦当初のドイツ軍の優勢から、戦争は短期で終結すると考えたことである。これらの予想は外れ、1941年にドイツは独ソ不可侵条約を破ってソヴィエト連邦も敵に回して戦争(独ソ戦)を始め、疎開先の東欧諸国が4年に渡って戦場となったことから、多くの車両が破壊されたり、東側諸国に奪われたり、行方不明となったりするという憂き目にあう。 疎開先の東欧諸国は戦後はソヴィエト連邦の勢力圏となったため、鉄のカーテンに阻まれて消息を追うことも困難となった。運良く発見された車両も、戦利品とみなされたためか、ダイムラー・ベンツに返却されることはなく、発見された車両のほとんどはコレクターの手に渡っていった。
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