しょう‐そく〔セウ‐〕【消息】
読み方:しょうそく
[名](スル)《「消」は陰気のなくなること。「息」は陽気の生じること》
1 人や物事の、その時々のありさま。動静。状況。事情。「その後の—を尋ねる」「政界の—に通じている」
2 状況や用件などを手紙などで知らせること。また、その手紙や連絡。音信。音沙汰。たより。「—を交わす」「漁船が—を絶つ」
「彼女は、短くとも殆(ほと)んど毎日—してよこした」〈有島・宣言〉
しょう‐そこ〔セウ‐〕【消▽息】
消息
消息
消息
消息
消息
消息
消息
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/02 13:52 UTC 版)
通説によると道頓は、文明3年12月26日(ユリウス暦1472年2月5日)に逃亡先の豊前国馬ヶ岳城で自害したとされる(『大日本史料』)。ところが、陶武護らが文明3年に道頓を豊前国に追った事を示す史料はあるものの、馬ヶ岳城で自害したとするのは江戸時代に編纂された『歴代鎮西要略』や一部の軍記物・諸系図だけであり(しかも『歴代鎮西要略』では文明元年(1469年)の出来事とするなど年代が異なる)、文明3年に道頓が自害したとする歴史的根拠は存在していない。 逆に文明3年以降も道頓が健在であった事を示す史料として、大内左京大夫入道(=道頓)宛の「文明8年8月19日室町幕府奉行人連署奉書」と大友政親宛の「文明9年3月26日室町幕府奉行人連署奉書」(ともに『大友家文書録』所収)がある。前者は東軍側が大内氏当主に認定していた道頓自身に対して豊前国での停戦を命令したものであり、後者は道頓が周防・長門(大内政弘領)に攻め込もうしていることに前将軍足利義政が遺憾の意を示していることを説明し、周辺諸勢力がこれに協力しないように命じているものである。つまり、これらの文書は道頓が文明8年(1476年)段階において健在であったことと、東軍側によって守護とされてきた教幸が足利義政ら室町幕府から切り捨てられたことを示している。 文明9年11月に応仁の乱が終息すると、西軍諸将である大内政弘らの守護解任が無効となり、幕府の分裂を解消した足利義政ら旧東軍勢力にとって道頓の利用価値はなくなった。その後、文明10年(1478年)9月に博多を陥落させた大内政弘が、最後まで道頓に従っていたとみられている仁保弘名(盛安の子)を梟首しているが、道頓本人の消息は不明である。
※この「消息」の解説は、「大内教幸」の解説の一部です。
「消息」を含む「大内教幸」の記事については、「大内教幸」の概要を参照ください。
消息
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 04:43 UTC 版)
オマルは寡黙な性格で、首長時代にもメディアへの露出も外交的な活動もなく、公式な写真は一枚もないが、身長が極めて高い(2mと言われる)とされる。2001年12月、カンダハールのオマルの自宅がアメリカ軍に爆撃されてオマルの息子が死亡した。ターリバーン政権崩壊でオマルは残余の兵士とともに逃亡し、その後は消息不明となった。一説には、アフガニスタンとパキスタンのパシュトゥーン人居住地帯を転々としながらアフガニスタンの親米政権に対する敵対行動を指揮しているといわれた。情報筋によると、オマルはその後パキスタンのカラチに死ぬまで住んでいたが、この説はオマルが米軍基地近くのアフガニスタンに住み続けたと書いたジャーナリストのベット・ダムによって否定された。 2004年4月、パキスタンのメディアがオマルとのインタビューに成功した。そこでオマルはビン・ラーディンとは連絡を取っていると語った。2006年初頭にアフガニスタン国軍により拘束されたターリバーンのムハマド・ハニーフ報道官の供述に拠れば、オマルは当時軍統合情報局(ISI)の保護下にあり、クエッタの安全な場所に滞在していたという。ハーミド・カルザイは「オマルの背後にはISIがいる」とパキスタンを非難していた。また、スタンリー・マクリスタルやデヴィッド・ペトレイアスらアメリカ軍高官は「イランのイスラム革命防衛隊がターリバーンの庇護に関与している」と度々イランを非難していた。2006年6月、アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーがアメリカ軍の爆撃で死亡すると、オマルはザルカーウィーを殉教者と讃える声明を発表した。2009年11月、ワシントン・ポスト紙は「オマルの潜伏先がISIによってカラチに移された」と報じた。2011年1月、ワシントン・ポスト紙はCIA筋の情報として「オマルが心臓病を発症した」と報じるなど、オマルのパキスタン潜伏説が度々流れた。2011年5月、7月と死亡説が流れたが、ターリバーンのスポークスマンはこれを否定した。
※この「消息」の解説は、「ムハンマド・オマル」の解説の一部です。
「消息」を含む「ムハンマド・オマル」の記事については、「ムハンマド・オマル」の概要を参照ください。
消息
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 01:04 UTC 版)
「久米裕 (拉致被害者)」の記事における「消息」の解説
久米裕の安否は依然不明である。拉致当時の久米は親兄弟とは音信不通で独居生活を送っていた。1977年9月18日、職場の同僚に「いま能登半島の温泉にいる」と電話をかけてきて以来、消息を絶っている。
※この「消息」の解説は、「久米裕 (拉致被害者)」の解説の一部です。
「消息」を含む「久米裕 (拉致被害者)」の記事については、「久米裕 (拉致被害者)」の概要を参照ください。
消息
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/12 01:29 UTC 版)
永倉新八が建てた板橋の石碑の中で「変死・病死」に列記されている為、在隊中に何らかの理由で死亡したと考えられる。 一説には、松山幾之助と同一人物ともいわれている。この説が真実である場合、御蔵伊勢武、荒木田左馬之助らが刺殺された直後だと考えられる。
※この「消息」の解説は、「松崎静馬」の解説の一部です。
「消息」を含む「松崎静馬」の記事については、「松崎静馬」の概要を参照ください。
消息
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 14:16 UTC 版)
尾形の消息は長きにわたり判然としなかった。中島登は「行方不明」とし、横倉甚五郎は「会城(会津若松城)に残った」としている。いずれにしても新選組本陣から離れており、その後は以下のような諸説があるが、どれも確証がなかった。 会津に残り、そこで生涯を終えた。 仙台藩士と共に抗戦し、仙台で降伏した。 故郷の熊本に帰り、地元の警察で剣術を教えた。 東京で斎藤(当時の名は藤田五郎)と共に古閑膽次という名で密偵をした後、消防署長となり、明治37年(1904年)に殉職した。 会津三代の正福寺に松本喜次郎の墓と共に「尾形」という姓の新選組隊士の墓があったという伝承があるが、定かではない。 2013年、霊山歴史館に尾形の子孫から俊太郎の手による漢詩書が寄贈され、この書と共に発見された文書の解析によって、尾形の生没年や来歴、その後が明らかとなった。それによると、尾形は会津でしばらく過ごしてから故郷の熊本に戻って私塾を開き、大正2年(1913年)に75歳で死去した。会津で負ったと思われる目の怪我が元で、晩年には視力をほとんど失っていたという。新撰組隊士であったことを周囲に話すことはなく、ただ文書の片隅に「元壬生浪士」とだけ記されていたという。
※この「消息」の解説は、「尾形俊太郎」の解説の一部です。
「消息」を含む「尾形俊太郎」の記事については、「尾形俊太郎」の概要を参照ください。
消息
「消息」の例文・使い方・用例・文例
- 彼がパリを出立してからは,だれも彼の消息がわからない
- そのジャンボ機は1時間も消息を絶っている
- 消息筋
- 彼女の息子の消息はまったく分からなくなった
- あの人はイギリスへ発ったまま消息がない。
- 彼らは消息を絶ってしまった。
- 消息筋によると、○○社は東証一部への上場を準備している。
- 新聞に飛行機が消息を絶ったと書いてあった。
- 彼女は5年前に家を出たきりで、その後何の消息もありません。
- 彼は3年前に家を出たきり全然消息がない。
- 年賀状のおかげで私達は友達や親戚の消息が分かる。
- 田中君からこの半年間何の消息もない。
- 私はそれ以来彼の消息は聞いていない。
- 月日がどんどん過ぎていったが、彼の消息は何も聞こえてこなかった。
- ナンシーがポールと別れたことを知らなかった私は、まずいことに彼女の消息をポールに聞いてしまった。
- それ以来彼らの消息は不明だ。
- それ以来、彼の消息を聞いていない。
- しかし、ゴルバチョフ大統領が健康に何らかの問題を抱えているという兆候はありませんでしたし、その消息も目下のところ不明です。
- イスラム系共和国が独立国家共同体に参加しない場合、それらの国々は独自の勢力を形成し、一触即発の民族的、宗教的な亀裂を生じかねない、とソ連、西側の消息筋は警告しています。
- あの人はアメリカへ立ったまま消息がない。
消息と同じ種類の言葉
- >> 「消息」を含む用語の索引
- 消息のページへのリンク