イギリスへとは? わかりやすく解説

イギリスへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 02:19 UTC 版)

キャロライン・オブ・アーンズバック」の記事における「イギリスへ」の解説

1705年2月にゾフィー・シャルロッテを亡くし悲しみ暮れるが、9月にゲオルク・アウグストと結婚した結婚後はハノーファー住みゾフィーライプニッツ指導受けて将来イギリス行き備えて英語の勉強励んだ1707年天然痘にかかり命の危険に晒されるが、夫の看病甲斐あって回復した1714年6月8日ゾフィー散歩についていったが、の中で体調崩して亡くなったゾフィー看取った結婚生活恩人の死という不幸はあったが、翌1715年からゾフィーの姪で夫の従伯母に当たるオルレアン公フィリップ1世妃エリザベート・シャルロット(リーゼロッテ)と文通交わし合った同年8月1日に舅がジョージ1世としてイギリス国王即位すると、舅や夫より少し後に娘3人を連れて10月11日ケント上陸ロンドンへ移住したその際、既に7歳になっていた長男フリードリヒ・ルートヴィヒ(フレデリック・ルイス)をハノーファー残していかねばならなかった(ジャコバイトによる暴動襲撃警戒して措置であったという)。しかし、ロンドンへ行く途中でイギリス国民大歓迎を受け、プリンセス・オブ・ウェールズ・キャロラインの絶叫絶えることが無かったほどだった。国民王族を見るのが久しぶりで、美人で背が高く容姿端麗キャロライン熱狂的に迎えキャロラインイギリス好意的に見るようになっていった。 イギリス国民人気獲得したキャロラインだが、家庭では苦労させられた。親子仲が悪い舅と夫の間に板挟みになり、舅の名誉を損なわず夫を守りロバート・ウォルポール(後に首相)に助けられたが、1717年セント・ジェームズ宮殿次男ジョージ・ウィリアムを出産した際、洗礼式で舅が夫と不仲ニューカッスル公爵トマス・ペラムホリス出席、それに腹を立てた夫がニューカッスル公を殴る事件起こし報告聞いて激怒した舅により夫共々宮殿から追放されレスター・ハウス(英語版)への移住余儀無くされた。 1727年に舅が崩御して夫がジョージ2世として即位すると、イギリス事情通じず、好戦的思慮が足りないとされた王の助言役に徹し首相ウォルポール助けた先代から首相務めウォルポール嫌っていたジョージ2世だが、ウォルポール宮廷費増額実現させる態度一変してウォルポール支持ウォルポール贔屓キャロライン根回しもあり、王と政権の関係は安定化ていった政治世界決して表立たなかったキャロラインだが、ジョージ2世統治キャロラインウォルポール連携進んでいることを知る国民は、戯れ歌にして王妃を讃え、王をからかった。 「 小粋なジョージ威張って歩いたところで無駄だろう、本当に治めているのは王妃キャロライン、あんたじゃないってみんながわかってる 」 キャロラインジョージ2世ハノーファー訪問し不在となると摂政務めた学問芸術にも深い関心寄せていて、イギリス帰化した音楽家ヘンデルとはドイツにいたときからの知り合いであったアイザック・ニュートンとも親交結んでいた。また当時イギリスでは天然痘死亡率高くキャロライン種痘人痘法)の必要性説いていたといわれ、1722年2人の娘に接種させている。リーゼロッテ異母妹宛ての手紙でキャロライン種痘試みに感心したことを書き送りヴォルテール著書哲学書簡』でキャロライン種痘称賛している。 1728年成年達していた長男フレデリック・ルイスがイギリスへ移住する。それから数年間、ジョージ2世キャロラインフレデリック・ルイス悪行に手を焼くことになる。両親から14年余り離れて育った王太子両親言うことを聞かず、王の寵臣ウォルポール政敵集めて反抗したり、プリンス・オブ・ウェールズ歳費増額政府要求したりで、ことごとく突いたキャロラインが自ら選んだプリンセス・オブ・ウェールズオーガスタ息子との間の緩衝剤となるかと期待したが、それもならなかった。フレデリック・ルイス結婚後に一転して家庭的な夫となり、宮廷から距離を置くが、両親との仲は悪いままだった。

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イギリスへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 04:56 UTC 版)

榎枝慶之輔」の記事における「イギリスへ」の解説

1965年4月20日JKA海外インストラクター派遣して空手紹介する方針従いJKAインストラクターとなった白井金澤弘和加瀬 泰治と共にイギリスに渡る 。リバプール教え始めた1960年代後半イギリス人学生1人に、武術学者のハリー・クックがいた 。 妻レイコ1969年結婚した)とサリーキングストン定住1973年にはBBC生放送空手デモンストレーション主導 オープンドアシリーズの一部であるが、空手についての最初イギリステレビ番組であったデモンストレーション含め基本的な技術、 カタパターン)、複数相手とのスパーリング白羽取り、およびデイブ・ハザードらと板割披露 その後KUGBのチーフインストラクターとなったは、加藤貞重(1966〜1973年頃)、浅野史郎19681974年)、富田英雄19731978年)、川添正雄(1974-1982年) 太田義信 (1982-2003)の支援受けていた。 1985年、8 段に昇段空手に関する本もいくつか書いている。 書道館:上級型 (1983年3巻)、 松濤館空手1996)、 松濤館空手10級から6級1996)、 松濤館空手5th Kyu to Black Belt1996)、 KarateDefenseattack1996、co-authored)、 and Shotokan KarateFree Fighting Techniques1999、co-authored)などがある ロンドン地下鉄の 「ダイナミック空手ポスター道場宣伝していた。 2003年3月29日死亡するまで、 ロンドンの カーナビーストリート近くのマーシャルストリートバスで空手教えていた 彼の死後まもなく、JKA彼に九段位を授与 妻のレイコ子供たちダイスケマヤを遺しての死去

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