イギリスへ
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「キャロライン・オブ・アーンズバック」の記事における「イギリスへ」の解説
1705年2月にゾフィー・シャルロッテを亡くし悲しみに暮れるが、9月にゲオルク・アウグストと結婚した。結婚後はハノーファーに住み、ゾフィーとライプニッツの指導を受けて、将来のイギリス行きに備えて英語の勉強に励んだ。1707年に天然痘にかかり命の危険に晒されるが、夫の看病の甲斐あってか回復した。1714年6月8日にゾフィーの散歩についていったが、雨の中で体調を崩して亡くなったゾフィーを看取った。結婚生活で恩人の死という不幸はあったが、翌1715年からゾフィーの姪で夫の従伯母に当たるオルレアン公フィリップ1世妃エリザベート・シャルロット(リーゼロッテ)と文通を交わし合った。 同年8月1日に舅がジョージ1世としてイギリス国王に即位すると、舅や夫より少し後に娘3人を連れて10月11日にケントに上陸、ロンドンへ移住した。その際、既に7歳になっていた長男フリードリヒ・ルートヴィヒ(フレデリック・ルイス)をハノーファーへ残していかねばならなかった(ジャコバイトによる暴動・襲撃を警戒しての措置であったという)。しかし、ロンドンへ行く途中でイギリス国民の大歓迎を受け、プリンセス・オブ・ウェールズ・キャロラインの絶叫が絶えることが無かったほどだった。国民は王族を見るのが久しぶりで、美人で背が高く容姿端麗なキャロラインを熱狂的に迎え、キャロラインもイギリスを好意的に見るようになっていった。 イギリスで国民人気を獲得したキャロラインだが、家庭では苦労させられた。親子仲が悪い舅と夫の間に板挟みになり、舅の名誉を損なわず夫を守り、ロバート・ウォルポール(後に首相)に助けられたが、1717年にセント・ジェームズ宮殿で次男ジョージ・ウィリアムを出産した際、洗礼式で舅が夫と不仲のニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリスを出席、それに腹を立てた夫がニューカッスル公を殴る事件を起こし、報告を聞いて激怒した舅により夫共々宮殿から追放されレスター・ハウス(英語版)への移住を余儀無くされた。 1727年に舅が崩御して夫がジョージ2世として即位すると、イギリスの事情に通じず、好戦的で思慮が足りないとされた王の助言役に徹し首相ウォルポールを助けた。先代から首相を務めるウォルポールを嫌っていたジョージ2世だが、ウォルポールが宮廷費増額を実現させると態度を一変してウォルポールを支持、ウォルポール贔屓のキャロラインの根回しもあり、王と政権の関係は安定化していった。政治の世界に決して表立たなかったキャロラインだが、ジョージ2世の統治がキャロライン=ウォルポールの連携で進んでいることを知る国民は、戯れ歌にして王妃を讃え、王をからかった。 「 小粋なジョージ、威張って歩いたところで無駄だろう、本当に治めているのは王妃キャロライン、あんたじゃないってみんながわかってる 」 キャロラインはジョージ2世がハノーファーを訪問し、不在となると摂政を務めた。学問・芸術にも深い関心を寄せていて、イギリスに帰化した音楽家のヘンデルとはドイツにいたときからの知り合いであった。アイザック・ニュートンとも親交を結んでいた。また当時のイギリスでは天然痘の死亡率が高く、キャロラインは種痘(人痘法)の必要性を説いていたといわれ、1722年に2人の娘に接種させている。リーゼロッテは異母妹宛ての手紙でキャロラインの種痘の試みに感心したことを書き送り、ヴォルテールも著書『哲学書簡』でキャロラインの種痘を称賛している。 1728年、成年に達していた長男フレデリック・ルイスがイギリスへ移住する。それから数年間、ジョージ2世とキャロラインはフレデリック・ルイスの悪行に手を焼くことになる。両親から14年余りも離れて育った王太子は両親の言うことを聞かず、王の寵臣ウォルポールの政敵を集めて反抗したり、プリンス・オブ・ウェールズの歳費増額を政府に要求したりで、ことごとく楯突いた。キャロラインが自ら選んだプリンセス・オブ・ウェールズのオーガスタが息子との間の緩衝剤となるかと期待したが、それもならなかった。フレデリック・ルイスは結婚後に一転して家庭的な夫となり、宮廷から距離を置くが、両親との仲は悪いままだった。
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イギリスへ
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1965年4月20日、JKAの海外にインストラクターを派遣して空手を紹介する方針に従い、JKAインストラクターとなった白井 、金澤弘和、加瀬 泰治らと共にイギリスに渡る 。榎枝はリバプールで教え始めた。1960年代後半イギリス人学生の1人に、武術学者のハリー・クックがいた 。 妻レイコ(1969年に結婚した)とサリー のキングストンに定住。 1973年にはBBCの生放送で空手のデモンストレーションを主導 オープンドアシリーズの一部であるが、空手についての最初のイギリスのテレビ番組であった。 デモンストレーション含め基本的な技術、 カタ (パターン)、複数の相手とのスパーリング、白羽取り、およびデイブ・ハザードらと板割を披露 その後KUGBのチーフインストラクターとなった榎枝は、加藤貞重(1966〜1973年頃)、浅野史郎(1968〜1974年)、富田英雄(1973〜1978年)、川添正雄(1974-1982年) 太田義信 (1982-2003)の支援を受けていた。 1985年、8 段に昇段。 空手に関する本もいくつか書いている。 書道館:上級型 (1983年、3巻)、 松濤館空手 (1996)、 松濤館空手:10級から6級 (1996)、 松濤館空手:5th Kyu to Black Belt (1996)、 Karate:Defense&attack (1996、co-authored)、 and Shotokan Karate:Free Fighting Techniques (1999、co-authored)などがある ロンドン地下鉄の 「ダイナミック空手」ポスターで道場を宣伝していた。 2003年3月29日に死亡するまで、 ロンドンの カーナビーストリート近くのマーシャルストリートバスで空手を教えていた 彼の死後まもなく、JKAは彼に九段位を授与 妻のレイコと子供たちのダイスケとマヤを遺しての死去。
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