イギリスの離反政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/18 10:27 UTC 版)
「第二次マラーター戦争」の記事における「イギリスの離反政策」の解説
ヤシュワント・ラーオの名はその武勇により、インド全土に名を馳せることとなった。ホールカル家の同盟者は多かったため、イギリスは戦後にホールカル家の領土を分割することでその結束を砕こうとした。 これにより、4月17日にバラトプル王ランジート・シングはイギリスと講和条約を結び、戦線を離脱した。また、ピンダーリーのアミール・ハーンも裏切り、トーンクに領土を認められた。 とはいえ、ヤシュワント・ラーオ・ホールの奮戦は多くの仲間を集めた。戦線を離脱していたダウラト・ラーオやラグージー・ボーンスレー2世は再び戦争への参加を 試みるようになっていた。また、ラージプートのジャイプル王国やマールワール王国なども彼を支援したことで知られている。 一方、ヤシュワント・ラーオはバラトプルを追われたのち、8,000人の騎兵と5,000人の歩兵、20~30門の大砲とともにチャンバル川を渡り、サトレジ川を越え、パンジャーブ地方のシク王国へと逃げていた。その君主ランジート・シングは1804年8月1日付の手紙で彼との同盟と援助を約束しており、イギリスに彼との関係を断つように迫られていたが、それでも物資を援助していた。パンジャーブ地方最大の勢力であるシク王国を味方につけていた彼は、他のシク領主をも糾合して反英同盟の結成を試みた。 だが、12月17日にランジート・シングはイギリスの側についてしまった。このことを知ったヤシュワント・ラーオはランジート・シングを呪い、このことはパンジャーブでことわざになったほどだった。
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