イギリスの頌歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 14:16 UTC 版)
イギリス(英語)の頌歌の最初の手本とされたのは、様々なテーマで思索型の抒情詩を書く表現形式を使っていたホラティウスだった。その厳格な形式に則って、英語で書かれた最初の頌歌は、エドマンド・スペンサーの『祝婚歌(Epithalamium)』と『結婚詩(Prothalamium)』である。 17世紀の重要なイギリス独自の頌歌は、エイブラハム・カウリーとアンドリュー・マーヴェル(en:Andrew Marvell)のものである。『Horatian Ode upon Cromwell's Return from Ireland(クロムウェルのアイルランドからの帰還に寄せるホラティウス風頌歌)』の中で、マーヴェルは、ホラティウスを手本にした正規の形式(2つの四歩格行の後に2つの三歩格行を置く)を使った。一方、カウリーは、短長格の詩ではあったが、行の長さと押韻構成の不規則なパターンを持った『ピンダロス風頌歌(Pindarick ode)』を書いた。カウリーの『ピンダロス風頌歌』の法則(不規則な頌歌)はピンダロスの韻律の使い方の誤解に基づいたものだったが、広く模倣され、ジョン・ドライデンの成功を生んだ。しかし、18世紀になって、ピンダロスの韻律のより正しい理解により、この不規則な頌歌は衰えた。『The Progress of Poesy(詩の進歩)』と『The Bard(吟遊詩人)』はトマス・グレイによる「本格的な」ピンダロス風頌歌である。 1800年頃、ウィリアム・ワーズワースが代表作の1つ『霊魂不滅のうた』でカウリーの不規則な頌歌を復活させた。サミュエル・テイラー・コールリッジも不規則な頌歌を書いた。一方、ジョン・キーツとパーシー・ビッシュ・シェリーは正規の詩節のパターンを持つ頌歌を書いた。14行のテルツァ・リーマの詩節で書かれたシェリーの『西風の頌歌(西風の賦、西風に寄せる歌)』はこの形式の代表的なものだが、19世紀に書かれた頌歌でおそらく最も素晴らしいものはキーツの書いたものであろう。キーツ以降、イギリスの頌歌は比較的少ない。例外として、ローレンス・ビニヨン(en:Laurence Binyon)の詩『For the Fallen』の第4連で、これは別名『The ode to the fallen』もしくは『The Ode』と呼ばれている。
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