イギリスの離脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 02:29 UTC 版)
華やかにスタートしたエアバス計画だったが1年後には雲行きが怪しくなった。1967年から1968年にかけて風洞試験や構造の設計が進んだが、米国のダグラスやロッキードも「エアバス」機体案を練っており、それに対抗してA-300の設計案はさらに大型化した。航空会社側の意見を入れて胴体直径は5.94メートルに縮小されたものの、最大離陸重量は138.5トンまで増加し、RB207エンジンの推力増強が必要になった。開発費の見積もりも機体が2.1億ポンド、エンジンは7000万ポンドまで膨らんだ。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 米国のロッキードとダグラスは、ほぼ同時に3発大型機となるL-1011(上)とDC-10(下)の開発をそれぞれ決定した。 航空会社側は大きすぎると難色を示し、1968年7月31日の期限になっても1機の発注もなかった。経済が停滞していたイギリスでは政府が支出を切り詰めようとしており、A-300反対論が台頭した。さらに決定的だったのは、A-300計画がもたついている間に米国の「エアバス」構想が具体化し、1968年4月にロッキードとダグラスがそれぞれL-1011とDC-10の生産に着手したことだった。これで、A-300が見込んでいた市場が奪われてしまうだけでなく、R-RがL-1011向けに新型エンジンRB211の開発を受注したことで、R-Rおよびイギリス政府は販売数が期待されたRB211の開発を優先してA-300向けRB207エンジンには積極的でなくなった。 このような状況でA-300プロジェクトは機体の小型化を検討した。エンジンは747、DC-10、L-1011と同じエンジンを流用することになり、A-300は、ゼネラル・エレクトリック(以下、GE)製CF6、P&W製JT9D、あるいはRB211のどれでも装備可能な双発機とされた。最大離陸重量は125トンに抑えられ、胴体直径は5.54メートルまで縮小、座席数は約50席減の252席(座席間隔34インチの1クラスの場合)となった。この小型化した機体案はA-300Bと呼ばれ、航空会社の要望にも沿ったものであったが、依然として受注獲得には至らなかった。 この間、イギリスでは機体担当のホーカー・シドレー社を除いて計画への熱意がますます冷めていき、ついに1969年4月10日、イギリス政府はこれ以上の財政負担はできないとして計画からの脱退を発表した。イギリス政府はR-Rによるエンジン独占がなくなった上、A-300Bは事業的成功に懐疑的になったと判断した。
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