戦争指導者としての東條
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大戦中、戦後を通じて東條は、日本の代表的な戦争指導者と見なされることが多く、第二次世界大戦時の日本を代表する人物とされている。一方で戦史家のA・J・P・テイラーは、大戦時の戦争指導者を扱った記述の中で、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、イタリア、ソ連についてはそれぞれの指導者(フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、アドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニ、ヨシフ・スターリン)を挙げているものの、日本については「戦争指導者不明」としている。これは、総理大臣・陸相・参謀総長を兼任し、立場上は大きな指導力を発揮できるはずの東條の権力が、他の戦争指導者と同列に扱えないとテイラーが判断したことによるものである。しかしこの書籍の表紙には、他国の戦争指導者とともに東條の肖像が描かれており、第二次世界大戦時の日本の指導者を1人に絞る場合には、やはり東條の名前が挙がることになる。 東條は「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」などの政府案を支持していたが、「敵の死命を制する手段が無く」、長期戦となる確率は80パーセントぐらいであろうと考えていた。また短期で勝利できる可能性は、アメリカ主力艦隊の撃滅、ドイツの対米宣戦やイギリス本土上陸によるアメリカの戦意喪失、通商破壊戦によってイギリスを追い込むことしかないと考えていた。真珠湾攻撃でアメリカの主力艦隊は大きなダメージを負い、東條はこれを構想以上のものと考えた。東條は西アジア方面に主力を派遣し、イギリスの離脱を促進するよう望んでいたが、海軍は太平洋方面への進出を望んだ。この際に東條は陸海軍の調停を積極的に行うこともせず、玉虫色の合意が形成されるに終わった。これは東條が、陸海軍の摩擦や衝突を回避しようと考えていたことによる。 東條は、1942年(昭和17年)には軍務局長・佐藤賢了に対し、陸海軍の間でもめ事が起こった場合には、大臣にまで上げず、局長クラスで解決するようにという指示を与えている。これは陸海軍間の争いとなった場合には首相が調停を行わなければならないが、陸相を兼任している以上それが不可能であるというものであった。東條の権力は陸海軍間の問題に関与できるほど大きなものではなく、この点でも主要国の戦争指導者と異なっている。また陸軍に対する権力も大きなものではなく、統帥部がガダルカナル戦の継続を行おうとした時も、軍事物資の輸送を押さえて牽制することしかできなかった。井本熊男は、東條が「統帥権独立のもとでは戦争はできぬ」とこぼすのをよく聞いたという。1944年(昭和19年)2月にはそれを打開するために参謀総長に就任するが、この際にも首相や陸相が兼任するのではなく、東條という人格が参謀総長になる「二位一体」だという説明を行っている。その後も東條は、あくまで参謀総長と陸相、首相としての立場をそれぞれ使い続け、相互の対立や摩擦を防ぐことに力を注いだ。佐藤賢了は「東條さんは決して独裁者でもなく、その素質もそなえていない。」と評している。 東條は会議で戦争の行く末に関してしばしば示唆や疑問を投げかけたものの、具体的なビジョンや指針を示すことはなく、代替案を提示することもなかった。伊藤隆は「東條は、当面の最大の課題として、戦争に勝たなければならないことを繰り返し強調するが、それが具体的にどのような形をとるものかというイメージは全く語っていない」と指摘している。 また敗北を認めるような発言を行うことは非常に希であった。インパール作戦が失敗に終わりつつあった1944年(昭和19年)5月の時点でも、作戦継続困難を報告した参謀次長・秦彦三郎に対し「戦は最後までやってみなければ分からぬ。そんな弱気でどうするか」と叱責している。しかし東條にとってこれは真意ではなく、秦と二人きりになった時には、「困ったことになった」と頭を抱えて困惑していたという。1945年(昭和20年)2月、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に、東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した侍従長・藤田尚徳は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。
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