軍務局長とは? わかりやすく解説

軍務局

(軍務局長 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/07 19:36 UTC 版)

軍務局(ぐんむきょく)は、日本陸軍省海軍省に設置されていた軍政担当部局。

軍務局は軍政を管轄するとともに省の政策形成及び兵員・予算を獲得することが最も重要な役目であり、軍務局長は大臣・次官に次いで政治折衝の中心的な地位にあった(ただし、軍の公式な見解としては軍務局及び同局長の政治への関与は国務大臣の一員である軍部大臣の補佐を目的とした限定的なものであり、局長自身の権限によって行うものではないとされていた)。そのため、軍部による政治的な動きには主として軍務局が絡むことが多く、特に満州事変以後は軍務局長による政治的発言が行われ、戦局の拡大とともに国政の人事や政策にも影響を与えるようになっていった。特に昭和期の陸軍省軍務局長は、全ての官僚機構の中で最も大きな権勢を誇ったポストとされる[1]

前史

1871年9月12日(旧暦明治4年7月28日)に当時の兵部省にあった陸軍部・海軍部にそれぞれ軍務局が設置されてその下に人事担当の人別掛と総務担当の規定掛が置かれたのが嚆矢である。翌年、兵部省が陸軍省と海軍省に分離された以後も軍務局は設置されていたが、途中一時的に廃止されたり、復置されたりを繰り返していた。1890年代以後、漸くその組織が固まり、1900年軍部大臣現役武官制導入以後は中将・少将が補される職となり、以後1945年の両省解体まで存続することになる。

陸軍省軍務局

概略

陸軍省が設置された当初は旧兵部省の軍務局を継承していたが、1873年に陸軍省職制及び陸軍省条例が設置された際に、軍務局は歩兵・騎兵を扱う第二局となり、これとは別に通報・軍部・庶務を扱う第一局が新設された。1879年に陸軍職制が制定された際に第一局は総務局に、第二局は人員局に改称された。内閣制度発足直後の1886年に陸軍省官制が制定され、旧軍務局を引く人員局は廃止・解体され、主要部分は騎兵局に、それ以外の職務は総務局に引き継がれた。そして、1890年3月27日の官制改正によって総務局に騎兵・砲兵・工兵の3局が統合されて軍務局が復活した。局長職は当初、陸軍次官の兼職とされたが、1900年以後は原則専任となった。

陸軍省軍務局は編制動員計画戒厳・軍紀・徴兵憲兵などを所管し、第一軍事課(のち、軍事課)、第二軍事課(のち、歩兵課)、馬政課(のち、騎兵課)、砲兵事務課(のち、砲兵課)、工兵事務課(のち、工兵課)、獣医課(1893年に廃止、陸軍獣医学校などに継承)が設置されて、大佐・中佐級が任命された。後に、1900年に人事局、1908年に兵器局が設置されて関連部門が移管され、宇垣軍縮に伴う1926年の官制改正の際に整備局が設置されて関連部門が移管されると同時に既存の課の再編成も行われ、軍事・兵務・防備・馬政の4課体制となり、直後に徴募課が設置されて5課体制となった。

局務が大きく変容するのは1936年8月、二・二六事件後の「粛軍」に伴う組織再編からである。陸軍軍備その他一般軍政と予算管理を行う軍事課と、国防政策立案及び帝国議会との交渉、国防思想の普及などを扱う新設の軍務課の2課体制となり、徴募課は人事局に移管、他の2課は分離されて兵務局となった。更に1939年以後、軍務課は国防大綱についても管掌するようになり、総動員体制の企画立案に関与するようになった。太平洋戦争末期には物資の生産統制を行う戦備課を設置するとともに、大本営編制並びに勤務令の改正によって軍務局員は全員大本営陸軍参謀部第四部員と兼ねることになり、軍務局長が同部長職を兼任することとなった。

前述のように軍務局は政策及び必要予算の実現を目指して度々政治的活動を行ったが、特に陸軍のそれは顕著であり、局員は「政治将校」と揶揄されることもあった。明治期の2個師団増設問題からその兆候が見られ、満蒙独立運動中国語版、二・二六事件後の粛軍問題などでも問題視されたにもかかわらず、遂にはそれを恒常的・専門的に担当する「軍務課」の設置に至った。こうしてやがて、陸軍省軍務局の意向を中心とした総動員体制が推進されることになった。

歴代局長

海軍省軍務局

概略

海軍省が設置された当初は旧兵部省の軍務局を継承していたが、中途3度にわたって廃止と再置を繰り返している。すなわち1874年5月19日に廃止され、1876年8月31日復置、1884年2月8日に廃止、1886年1月29日復置、1889年3月7日廃止、1893年5月19日復置となっている。もっとも、1889年の廃止と4年後の復置は実質においては「第一局」への改称と旧称復帰にしか過ぎず(同様に艦政局は第二局、経理局は第三局となる。なお、軍務局復置時に第二局(旧艦政局)は復活されずに軍務局に統合されている)、日本の海軍史においては内閣制度発足に伴う海軍省官制制定に伴う1886年1月29日に設置されたものが1945年まで続いたと解されている。

海軍省軍務局は編制・戒厳・軍紀・教育・水路測量・儀式・海上保安・艦政などを所管した。日露戦争当時は2課定員9名であったが、その後拡大して太平洋戦争開戦直前の1940年には4課定員26名となった。1900年以後、課の名称は数字表記で示すことになっており、1940年の例では第一課が編制・戒厳・軍紀・儀式・旗制・服制などを担当し、第二課では国防政策・国際条約の規約など、第三課では機関・艦内工作及び艦船の保存整備、第四課は国防思想の普及を担当した。局長は現役将官とされている。なお、1886年から1889年と1945年2月以後には将官級の次長が設置されていた。

ロンドン海軍軍縮条約を支持した条約派の主要メンバーである左近司政三堀悌吉寺島健井上成美らが軍務局長を務めていたこともあり、軍務局長のポストは条約派と艦隊派、あるいは日米開戦派と反対派の争奪の的になった。

歴代局長

歴代次長

  • 井上良馨少将:1886年1月29日
    • 1886年6月17日 次長職空席
  • 本山漸少将:1887年10月27日
  • 山崎景則少将:1888年8月16日
    • 1889年3月9日 次長職空席
  • 保科善四郎少将:1945年3月1日
  • 高田利種少将:1945年5月15日
    • 1945年11月30日 海軍省廃止

脚注

  1. ^ 北岡伸一『政党から軍部へ』
  2. ^ a b 『官報』第2765号、昭和11年3月24日。
  3. ^ 岡敬純は1944年7月18日に海軍中将・海軍次官に任じられたために後任決定まで軍務局長の事務取扱を行っていたものの、直後に東条内閣総辞職によって海軍次官更迭が決定され、前次官のまま事務取扱を行っている。

参考文献

関連項目


軍務局長

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井上成美」の記事における「軍務局長」の解説

1937年昭和12年10月20日海軍省軍務局長兼将官会議議員米内光政海軍大臣に、山本五十六海軍次官に既に就任していた。海軍省詰め新聞記者たちは、この三人を「海軍省左派トリオ」と呼んだこの頃支那事変日中戦争)が本格化した時期であった揚子江流域には、英・米・仏の権益多く存在し、それらの国との摩擦各所起き海軍関係する問題全て軍務局長の井上集中した井上によれば「(中国における軍事行動においては、常にアメリカ刺激しないように、怒らせないようにと苦心し、)航空部隊連中には誠に気の毒だったが、その軍事行動に非常に厳し制限加えられ(ていた)」という。12月12日海軍艦上爆撃機隊が、南京付近揚子江上で米国砲艦誤爆沈没させる「パナイ号事件」が発生した井上は、米国態度硬化危惧し山本と共に素早く率直に非を認め事件収拾すべく奔走した日本政府当時常識越え多額賠償金220ドル670万円当時)を支払い駐日大使グルー通じてアメリカ陳謝する措置取った詳細は「日独伊三国同盟」を参照 井上は「昭和121314年にまたがる私の軍務局長時代2年間は、その時間と精力大半を(日独伊三国同盟問題に、しかも積極性のある建設的な努力でなしに、唯陸軍全軍一致強力な主張と、之に共鳴する海軍若手攻勢対す防禦だけに費やされた感あり」と回想するドイツ日独伊三国防共協定軍事同盟強化したい日本打診してきた。海軍部内三国同盟肯定的な者は多くマスコミは、英・米・仏の「露骨な援蔣行為」を批判しドイツの「躍進」ぶりを持ち上げて反英米・親独の世論を煽っていた。しかし、米内山本井上三国同盟絶対反対態度堅持した。井上は「海軍で三国同盟に)反対しているのは、大臣次官と軍務局長の三人だけということ世間周知の事実になってしまった。山本次官右翼からねらわれているとの情報あり、次官護衛をつけ、官舎帰る途順を色々変えたり秘書官が心配して私に、催涙弾でもお持ちになっていかがですか申し出たのもこのころのことであった」と回想している。 ドイツ語堪能井上アドルフ・ヒトラーの『Mein Kampf』(『我が闘争』の原書)を読みその中で日本人は、想像力のない劣った民族だが、小器用ドイツ人手足として使うには便利だ」という箇所訳本省かれていることを知っていた。井上はその部分局員たちに話して誰も耳をかさなかったので、訳文ガリ版刷って配った誰も意に介さなかったので腹を立てていた。井上は軍務局長名で海軍省内に「ヒトラー日本人想像力欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用小利口役に立つ存在見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチス日本接近真の理由もそこにあるのだから、ドイツを頼むに足る対等友邦信じている向き三思三省の要あり、自戒を望む」と通達した。 三国同盟主張する陸軍と、反対する海軍交渉が進むにつれ、論点は「自動参戦義務条項」に絞られた。陸軍はこれを是認し海軍絶対反対であった三国同盟を巡る陸軍海軍対立頂点達した1939年昭和14年8月上旬には、陸軍クーデター起こすではないかという見方が、海軍省井上らの周囲強まってきた。14日の朝には、麹町付近演習していた陸軍部隊が、東京霞が関海軍省の前まで姿を現し去った井上は、横須賀鎮守府参謀長先任参謀砲術学校教頭陸戦課長らを海軍省呼んで海軍省警備打ち合わせ行った井上海軍省建物陸戦隊兵力防衛できるが、電気切られ場合に対応出来るかと考え部下軍務局第三課長に海軍省構内井戸水量小型発電機などの検討指示した10月10日井上一人娘の靚子が、海軍軍医大尉丸田吉人(よしんど)と結婚した10月18日軍令部出仕転ず

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