軍務局
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軍務局(ぐんむきょく)は、日本の陸軍省・海軍省に設置されていた軍政担当部局。
軍務局は軍政を管轄するとともに省の政策形成及び兵員・予算を獲得することが最も重要な役目であり、軍務局長は大臣・次官に次いで政治折衝の中心的な地位にあった(ただし、軍の公式な見解としては軍務局及び同局長の政治への関与は国務大臣の一員である軍部大臣の補佐を目的とした限定的なものであり、局長自身の権限によって行うものではないとされていた)。そのため、軍部による政治的な動きには主として軍務局が絡むことが多く、特に満州事変以後は軍務局長による政治的発言が行われ、戦局の拡大とともに国政の人事や政策にも影響を与えるようになっていった。特に昭和期の陸軍省軍務局長は、全ての官僚機構の中で最も大きな権勢を誇ったポストとされる[1]。
前史
1871年9月12日(旧暦明治4年7月28日)に当時の兵部省にあった陸軍部・海軍部にそれぞれ軍務局が設置されてその下に人事担当の人別掛と総務担当の規定掛が置かれたのが嚆矢である。翌年、兵部省が陸軍省と海軍省に分離された以後も軍務局は設置されていたが、途中一時的に廃止されたり、復置されたりを繰り返していた。1890年代以後、漸くその組織が固まり、1900年の軍部大臣現役武官制導入以後は中将・少将が補される職となり、以後1945年の両省解体まで存続することになる。
陸軍省軍務局
概略
陸軍省が設置された当初は旧兵部省の軍務局を継承していたが、1873年に陸軍省職制及び陸軍省条例が設置された際に、軍務局は歩兵・騎兵を扱う第二局となり、これとは別に通報・軍部・庶務を扱う第一局が新設された。1879年に陸軍職制が制定された際に第一局は総務局に、第二局は人員局に改称された。内閣制度発足直後の1886年に陸軍省官制が制定され、旧軍務局を引く人員局は廃止・解体され、主要部分は騎兵局に、それ以外の職務は総務局に引き継がれた。そして、1890年3月27日の官制改正によって総務局に騎兵・砲兵・工兵の3局が統合されて軍務局が復活した。局長職は当初、陸軍次官の兼職とされたが、1900年以後は原則専任となった。
陸軍省軍務局は編制・動員計画・戒厳・軍紀・徴兵・憲兵などを所管し、第一軍事課(のち、軍事課)、第二軍事課(のち、歩兵課)、馬政課(のち、騎兵課)、砲兵事務課(のち、砲兵課)、工兵事務課(のち、工兵課)、獣医課(1893年に廃止、陸軍獣医学校などに継承)が設置されて、大佐・中佐級が任命された。後に、1900年に人事局、1908年に兵器局が設置されて関連部門が移管され、宇垣軍縮に伴う1926年の官制改正の際に整備局が設置されて関連部門が移管されると同時に既存の課の再編成も行われ、軍事・兵務・防備・馬政の4課体制となり、直後に徴募課が設置されて5課体制となった。
局務が大きく変容するのは1936年8月、二・二六事件後の「粛軍」に伴う組織再編からである。陸軍軍備その他一般軍政と予算管理を行う軍事課と、国防政策立案及び帝国議会との交渉、国防思想の普及などを扱う新設の軍務課の2課体制となり、徴募課は人事局に移管、他の2課は分離されて兵務局となった。更に1939年以後、軍務課は国防大綱についても管掌するようになり、総動員体制の企画立案に関与するようになった。太平洋戦争末期には物資の生産統制を行う戦備課を設置するとともに、大本営編制並びに勤務令の改正によって軍務局員は全員大本営陸軍参謀部第四部員と兼ねることになり、軍務局長が同部長職を兼任することとなった。
前述のように軍務局は政策及び必要予算の実現を目指して度々政治的活動を行ったが、特に陸軍のそれは顕著であり、局員は「政治将校」と揶揄されることもあった。明治期の2個師団増設問題からその兆候が見られ、満蒙独立運動、二・二六事件後の粛軍問題などでも問題視されたにもかかわらず、遂にはそれを恒常的・専門的に担当する「軍務課」の設置に至った。こうしてやがて、陸軍省軍務局の意向を中心とした総動員体制が推進されることになった。
歴代局長
- 桂太郎少将(のち、中将):1890年3月27日(陸軍次官兼任)
- 岡沢精少将:1891年6月1日(陸軍次官兼任)
- 児玉源太郎少将(のち、中将):1892年8月23日(陸軍次官兼任)
- 中村雄次郎少将:1898年1月14日(陸軍次官兼任)
- 木越安綱少将:1900年4月25日
- 中村雄次郎少将:1901年2月18日(陸軍総務長官兼任)
- 宇佐川一正少将(のち、中将):1902年4月17日
- 長岡外史少将(のち、中将):1908年12月28日
- 岡市之助少将:1910年6月1日
- 田中義一少将:1911年9月1日 - 1912年12月23日
- 柴勝三郎少将(のち、中将):1912年12月26日
- 山田隆一少将:1915年6月4日
- 奈良武次少将(のち、中将):1916年3月31日
- 菅野尚一少将(のち、中将):1918年12月17日
- 畑英太郎少将(のち、中将):1922年2月8日
- 阿部信行少将(のち、中将):1926年7月28日
- 杉山元 少将:1928年8月10日
- 小磯國昭少将(のち、中将):1930年8月1日
- 山岡重厚少将:1932年2月29日
- 永田鉄山少将:1934年3月5日(相沢事件で暗殺される)
- 今井清中将:1935年8月13日 - 1936年3月23日[2]
- 磯谷廉介少将(のち、中将):1936年3月23日[2] -
- 後宮淳少将(のち、中将):1937年3月1日
- 町尻量基少将:1937年10月5日
- 中村明人少将:1938年4月14日
- 町尻量基少将:1938年11月21日
- 山脇正隆中将:1938年12月29日(町尻局長の停職処分に伴う陸軍次官による事務取扱)
- 町尻量基少将(のち、中将):1939年1月31日
- 武藤章少将(のち、中将):1939年9月30日
- 佐藤賢了少将:1942年4月20日
- 真田穣一郎少将:1944年12月14日
- 吉積正雄中将:1945年3月27日
- 1945年11月30日 陸軍省廃止
海軍省軍務局
概略
海軍省が設置された当初は旧兵部省の軍務局を継承していたが、中途3度にわたって廃止と再置を繰り返している。すなわち1874年5月19日に廃止され、1876年8月31日復置、1884年2月8日に廃止、1886年1月29日復置、1889年3月7日廃止、1893年5月19日復置となっている。もっとも、1889年の廃止と4年後の復置は実質においては「第一局」への改称と旧称復帰にしか過ぎず(同様に艦政局は第二局、経理局は第三局となる。なお、軍務局復置時に第二局(旧艦政局)は復活されずに軍務局に統合されている)、日本の海軍史においては内閣制度発足に伴う海軍省官制制定に伴う1886年1月29日に設置されたものが1945年まで続いたと解されている。
海軍省軍務局は編制・戒厳・軍紀・教育・水路測量・儀式・海上保安・艦政などを所管した。日露戦争当時は2課定員9名であったが、その後拡大して太平洋戦争開戦直前の1940年には4課定員26名となった。1900年以後、課の名称は数字表記で示すことになっており、1940年の例では第一課が編制・戒厳・軍紀・儀式・旗制・服制などを担当し、第二課では国防政策・国際条約の規約など、第三課では機関・艦内工作及び艦船の保存整備、第四課は国防思想の普及を担当した。局長は現役将官とされている。なお、1886年から1889年と1945年2月以後には将官級の次長が設置されていた。
ロンドン海軍軍縮条約を支持した条約派の主要メンバーである左近司政三、堀悌吉、寺島健、井上成美らが軍務局長を務めていたこともあり、軍務局長のポストは条約派と艦隊派、あるいは日米開戦派と反対派の争奪の的になった。
歴代局長
- 樺山資紀中将:1886年1月29日(海軍次官兼任)
- 井上良馨少将:1886年6月17日(1889年3月8日付で第一局長に改称、同日退任)
- 伊東祐亨少将(のち、中将):1889年3月8日(海軍省第一局長)
- 伊藤雋吉中将:1893年5月20日 (海軍次官兼任、1893年5月20日付で軍務局長に改称)
- 山本権兵衛少将(のち、中将):1895年3月8日
- 諸岡頼之少将:1898年11月10日
- 斎藤実少将:1900年5月20日
- 上村彦之丞少将:1900年10月25日
- 出羽重遠少将:1902年10月29日
- 中溝徳太郎少将:1903年10月27日
- 斎藤実少将:1904年2月3日(海軍次官兼任)
- 加藤友三郎少将:1905年12月20日
- 加藤友三郎少将:1906年1月8日(自身の海軍次官任命に伴う海軍次官による事務取扱)
- 武富邦鼎少将:1906年11月22日
- 中溝徳太郎 中将:1908年5月15日
- 栃内曽次郎少将:1909年12月1日
- 江頭安太郎少将:1912年4月20日
- 野間口兼雄少将:1913年1月10日
- 秋山真之少将:1914年4月17日
- 鈴木貫太郎少将:1916年2月21日 (海軍次官兼任)
- 小栗孝三郎少将:1916年6月23日
- 井出謙治少将(のち、中将):1916年12月1日
- 堀内三郎中将:1920年8月16日
- 大角岑生少将:1922年5月1日
- 小林躋造少将(のち、中将):1923年12月1日
- 左近司政三少将(のち、中将):1927年3月25日
- 堀悌吉少将:1929年9月6日
- 豊田貞次郎少将:1931年11月2日
- 寺島健少将(のち、中将):1932年5月12日
- 吉田善吾少将(のち、中将):1933年9月15日
- 豊田副武中将:1935年12月2日
- 井上成美少将:1937年10月20日
- 阿部勝雄少将:1939年10月18日
- 岡敬純少将:1940年10月15日
- 岡敬純中将:1944年7月18日(自身の海軍次官任命に伴う海軍次官による事務取扱[3])
- 多田武雄中将:1944年8月1日
- 保科善四郎中将:1945年5月15日
- 山本善雄少将:1945年11月17日
- 1945年11月30日 海軍省廃止
歴代次長
- 井上良馨少将:1886年1月29日
- 1886年6月17日 次長職空席
- 本山漸少将:1887年10月27日
- 山崎景則少将:1888年8月16日
- 1889年3月9日 次長職空席
- 保科善四郎少将:1945年3月1日
- 高田利種少将:1945年5月15日
- 1945年11月30日 海軍省廃止
脚注
- ^ 北岡伸一『政党から軍部へ』
- ^ a b 『官報』第2765号、昭和11年3月24日。
- ^ 岡敬純は1944年7月18日に海軍中将・海軍次官に任じられたために後任決定まで軍務局長の事務取扱を行っていたものの、直後に東条内閣総辞職によって海軍次官更迭が決定され、前次官のまま事務取扱を行っている。
参考文献
- 木坂順一郎「軍務局」『日本近現代史事典』、東洋経済新報社、1979年 ISBN 978-4-492-01008-2
- 北岡伸一『政党から軍部へ』中央公論新社〈日本の近代 6〉、1999年。
- 黒沢文貴「軍務局」『日本史大事典 2』、平凡社、1993年 ISBN 978-4-582-13102-4
- 野村実「海軍省軍務局」『国史大辞典 3』、吉川弘文館、1983年 ISBN 978-4-642-00503-6
- 藤原彰「陸軍省軍務局」『国史大辞典 14』、吉川弘文館、1993年 ISBN 978-4-642-00504-3
関連項目
軍務局長
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1937年(昭和12年)10月20日、海軍省軍務局長兼将官会議議員。米内光政が海軍大臣に、山本五十六が海軍次官に既に就任していた。海軍省詰めの新聞記者たちは、この三人を「海軍省の左派トリオ」と呼んだ。 この頃、支那事変(日中戦争)が本格化した時期であった。揚子江流域には、英・米・仏の権益が多く存在し、それらの国との摩擦が各所で起き、海軍に関係する問題は全て軍務局長の井上へ集中した。井上によれば「(中国における軍事行動においては、常にアメリカを刺激しないように、怒らせないようにと苦心し、)航空部隊の連中には誠に気の毒だったが、その軍事行動に非常に厳しい制限が加えられ(ていた)」という。12月12日、海軍の艦上爆撃機隊が、南京付近の揚子江上で米国砲艦を誤爆・沈没させる「パナイ号事件」が発生した。井上は、米国の態度硬化を危惧し、山本と共に素早く率直に非を認め、事件を収拾すべく奔走した。日本政府は当時の常識を越える多額の賠償金220万ドル=670万円(当時)を支払い、駐日大使グルーを通じてアメリカに陳謝する措置を取った。 詳細は「日独伊三国同盟」を参照 井上は「昭和12、13、14年にまたがる私の軍務局長時代の2年間は、その時間と精力の大半を(日独伊)三国同盟問題に、しかも積極性のある建設的な努力でなしに、唯陸軍の全軍一致の強力な主張と、之に共鳴する海軍若手の攻勢に対する防禦だけに費やされた感あり」と回想する。ドイツは日独伊三国防共協定を軍事同盟に強化したいと日本に打診してきた。海軍部内も三国同盟に肯定的な者は多く、マスコミは、英・米・仏の「露骨な援蔣行為」を批判し、ドイツの「躍進」ぶりを持ち上げて、反英米・親独の世論を煽っていた。しかし、米内・山本・井上は三国同盟に絶対反対の態度を堅持した。井上は「海軍で(三国同盟に)反対しているのは、大臣、次官と軍務局長の三人だけということも世間周知の事実になってしまった。山本次官が右翼からねらわれているとの情報あり、次官に護衛をつけ、官舎へ帰る途順を色々変えたり、秘書官が心配して私に、催涙弾でもお持ちになってはいかがですかと申し出たのもこのころのことであった」と回想している。 ドイツ語に堪能な井上はアドルフ・ヒトラーの『Mein Kampf』(『我が闘争』の原書)を読み、その中で「日本人は、想像力のない劣った民族だが、小器用でドイツ人が手足として使うには便利だ」という箇所が訳本で省かれていることを知っていた。井上はその部分を局員たちに話しても誰も耳をかさなかったので、訳文をガリ版に刷って配ったが誰も意に介さなかったので腹を立てていた。井上は軍務局長名で海軍省内に「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由もそこにあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは三思三省の要あり、自戒を望む」と通達した。 三国同盟を主張する陸軍と、反対する海軍の交渉が進むにつれ、論点は「自動参戦義務条項」に絞られた。陸軍はこれを是認し、海軍は絶対反対であった。三国同盟を巡る陸軍と海軍の対立が頂点に達した1939年(昭和14年)8月上旬には、陸軍がクーデターを起こすのではないかという見方が、海軍省の井上らの周囲で強まってきた。14日の朝には、麹町付近で演習していた陸軍部隊が、東京・霞が関の海軍省の前まで姿を現して去った。井上は、横須賀鎮守府の参謀長、先任参謀、砲術学校の教頭と陸戦課長らを海軍省に呼んで海軍省警備の打ち合わせを行った。井上は海軍省の建物は陸戦隊の兵力で防衛できるが、水と電気を切られた場合に対応出来るかと考え、部下の軍務局第三課長に海軍省構内井戸の水量、小型発電機などの検討を指示した。 10月10日、井上の一人娘の靚子が、海軍軍医大尉の丸田吉人(よしんど)と結婚した。 10月18日、軍令部出仕へ転ず。
※この「軍務局長」の解説は、「井上成美」の解説の一部です。
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