井上成美
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井上 成美(いのうえ しげよし/せいび[注釈 1]、1889年〈明治22年〉12月9日 - 1975年〈昭和50年〉12月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。帝国海軍で最後に大将に昇進した二人の軍人の一人[注釈 2][7]。
注釈
- ^ 「成美」の正しい読みは「シゲヨシ」[4]。しかし「セイビ」とも呼ばれた[5]。1981年に英国で刊行された日英海軍間関係の研究書には「イノウエ シゲヨシ 海軍少将、海軍省軍務局長。イノウエ セイビという呼び方で、より知られている…」とある[6]。
- ^ もう一人は塚原二四三。
- ^ 1959年(昭和34年)に井上が財団法人水交会の求めに応じて行った談話の中に「私は運動神経が極めて鈍いので、武道体技その他の実技はお話にならないほど下手で、剣道、柔道、水泳共クラス中最劣等だったと記憶する」とあり、スポーツは苦手であった[9]。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』では入校席次8位[12]
- ^ 大連-仁川-鎮海湾-佐世保-鹿児島-津方面巡航
- ^ マニラ-アンボイナ-パーム島-タウンズビル-ブリスベーン-シドニー-ホバート-メルボルン-フリーマントル-バタヴィア-シンガポール-香港-馬公-基隆方面巡航
- ^ 海軍では練習艦隊遠洋航海の終了後、クラスヘッドは連合艦隊旗艦に乗組む慣例であった[17]。
- ^ 「兼 分隊長」の辞令は出ていない[24]。
- ^ 榎本は井上と同学齢の1890年(明治23年)1月16日生、東京帝大法科を卒業した翌年の1915年(大正4年)10月に海軍教授兼海軍省参事官兼海大教官、1924年(大正13年)12月に海軍書記官、1938年(昭和13年)10月には、中将に相当する海軍文官の最高位「高等官一等」となり、国際法の権威として、次官級の待遇を受けて軍政に参画していた[33]。井上が兵37期クラスヘッドとして中将に進級したのは1939年(昭和14年)11月なので、井上が1945年(昭和20年)5月に大将に親任されるまでは、官吏としての席次において榎本が井上よりも上だった。榎本は井上が心を許した生涯で数少ない親友だった[34][35]。
- ^ 赤屋根で2本煙突の平屋の洋館で[55]、庭先から歩いて海岸に降りることができた[56]。この家に一時期住んでいた井上の孫の丸田研一によると、南側に応接室・食堂・寝室が並び、応接間と食堂の前がテラスになっていて、食堂と応接室には暖炉があり、北側に台所と女中部屋(この部屋のみ畳敷き)があった。応接室が成美の部屋で、机と成美が寝る造り付けのベッドがあった。寝室には2つのベッドがあり、靚子と研一が使った[57]。1975年(昭和50年)の井上の死の直後に、井上宅を見た中田整一が「洋風の2間ばかりの小さな家」と形容した、つましい家であった[58]。この家は、もともと1932年(昭和7年)11月1日に肺結核で死去した妻の喜久代の療養所として計画されたものである。当時、肺結核の治療法は「空気の清浄な場所で、十分な栄養を取って静養する」以外になかった。井上がイタリアから帰国して以降、空気の良い鎌倉に家を借りて喜久代を療養させていたが、さらに「空気の良い所」を求めた井上は長兄の秀二が、長井町に別荘を建てていたのでその土地の一部を譲り受けた。井上は秀二の別荘に泊まりに行っては半年もかけて具体的な計画を練った[59]。訪問客が「海に面していて、風の日はさぞきついでしょう」と尋ねると、井上は図を描いて「この家の建っている崖はこういう形で、快速軍艦の艦橋前面に似ている。ここを補強して強風が直接当たらずに上へ吹き抜けるようにしている。三浦半島のこの辺では台風時の瞬間最大風速が何メートル程度、風向きはこのように変るので、崖の先端からベランダまでこのくらい離して、屋根を何センチ低くした」と、細かい説明をしたという[60]。
- ^ 『伝記』や『阿川』では、当時の通称の「お茶の水高女」と表記されているが、『わが祖父-井上成美』 57頁に「(靚子は)東京高等女子師範学校(現 お茶の水女子大学)の付属に通っていた」とある。
- ^ この頃、井上宅に通じる畑の中の道は、自動車が通れる道幅があり、井上宅の玄関先まで自動車が入れた戦後の混乱時に、井上宅に通じる道について、近所の農民たちが畑の境界線をなし崩しに広げて道幅を狭め、1965年(昭和40年)頃には自動車が入れない細道になっており、井上宅の不動産価値を著しく下げていた[61]。
- ^ 戦後の井上は、今川福雄大佐に「私は、少将昇進後は新設される第三航空戦隊の司令官に補されると内定していました。時局が急変したので、第三航空戦隊の新設が流れ、横須賀鎮守府参謀長になったのです。海軍の人事は予定通り行きません」という旨を語った[67]。
- ^ 戦後の井上は「新聞記者も商売だ。彼らの成り立つように考えてやる(適切に情報を開示する)ことが必要だ。その反面、利用もできる」と語っている[71]。
- ^ 那珂はこの日は九州方面に出動中だったので、同じく横鎮所属で同型艦の木曽が代わりとなった[70]。
- ^ 米内は、早朝に副官から事件の報告を受けていた[73]。
- ^ 井上が答申書の条件としていた兵学校・機関学校の修業年限「4年」は、答申書提出の翌年3月卒業の兵65期・機46期まで維持されたが、1939年(昭和14年)3月卒業予定だった兵66期・機47期は支那事変により1938年(昭和13年)9月に繰上卒業して「3年6か月」となり、戦争の激化で最終的には「2年4か月」に短縮された[79]。
- ^ 井上が海軍省軍務局長として日独伊三国同盟に猛反対していた時、陸軍大臣の板垣征四郎中将は三国同盟を推進する勢力の中心だった[94]。板垣征四郎は、この時期には、陸相から支那派遣軍総参謀長に転じて南京にいた[95]。
- ^ 山本は、海大甲種学生29期で井上の教えを受け、その後、井上が軍務局一課長で山本が海軍大臣秘書官、井上が軍務局長で山本が軍務局第一課A局員、井上が支那方面艦隊参謀長で山本が同艦隊先任参謀、井上が海軍次官で山本が軍務局一課長と、4度に渡り、部下として勤務した。戦後に井上が胃潰瘍で倒れた際に世話になった医師が、偶然に山本の従兄かつ義弟であった。戦後も、井上と山本はたびたび手紙や品物をやり取りしていた[101]。
- ^ 井上は「戦艦なんか造ったって、飛行機が進歩したらだめだぞ、戦にならないぞという考えは、二、三年前の昭和12年頃から私の頭にあった。大きな戦艦なんか造るのはむだだ、と会議があるたびに出したわけです」と回想する[106]。
- ^ 「新軍備計画論」は、井上自筆(ペン書き)の原本が、防衛庁防衛研究所に現存している(1982年(昭和57年)現在)[109]。
- ^ 井上の回想では、井上は、及川海相に文書を手渡した後で「これでいい。私はこれでやめます。正しいことが一つも通らない海軍はいやになったから、馘を切って下さい」と言うと及川は「馘は切らんよ。やめさせない」と答えたという[111]。井上が「海軍を辞めます」と言ったのは、海軍省軍務局一課長時代、支那方面艦隊参謀長時代に続いて三度目であった。
井上の回想によれば「井上は破壊的な議論ばかりするという声が耳にはいったからです(省部連絡会議で、マル五計画を痛烈に批判したことを指す[112]。)。これじゃいかんと思ったので、建白書に自分の考えをまとめたのです。ただ破壊的に、こんなもの(マル五計画、その他の日本海軍の考え)はダメだと批判していただけではない。ずっと以前から、どういう軍備が必要かということを考えていたのだ、ということを示すためにもね。それで私はやめますっていったんだ」「私はいわゆる大艦巨砲主義に反対して、海軍の空軍化を力説したのだが、あれは航空本部長のときにいったんで誤解され、損をしましたよ。航空本部長でもってやったもんだから、我田引水だとか、セクショナリズムだとか、そういうふうにとられてしまいました」[113]。 - ^ 横須賀、呉のような軍港地には、鎮守府等の海軍の司令部が、艦隊司令部とは別に陸上に置かれていた。しかし、旗艦鹿島の母港の役割を果たしていたトラックには海軍の陸上司令部は存在せず、鹿島がその機能を兼ねていた[122]。
- ^ 大日本帝国憲法下の「官吏」は、「高等官(武官は士官)」とその下の「判任官(武官は准士官・下士官」の二つに分れた。高等官は、さらに上から「親任官(武官は大将)」「勅任官(武官は中将・少将)」「奏任官(武官は大佐~少尉)」の3つに分かれた。「官吏」の下の身分として、「兵卒」や「傭人・雇員」があり、「臨時雇い」の位置づけだった[126]。
- ^ 戦時中の1943年(昭和18年)・1944年(昭和19年)に、井上が奥津ノブ子(井上が4F長官の時、トラック所在の第四海軍軍需部の少女傭員であった)に送った手紙4通を見ると、現役の海軍中将たる顕官にあった井上が、奥津ノブ子を全く対等に遇していたことが分る[127]。
- ^ 太平洋戦争中は、中将に進級してから5年半経過しても現役にある者は大将に親任される例であった[172]。1939年(昭和14年)11月15日に 中将に進級した井上は、予備役にならなければ、1945年(昭和20年)5月に大将に親任される計算となる。史実では、井上は1945年(昭和20年)5月15日に大将に親任された。
- ^ その「当分の間」が終わる前に、太平洋戦争の敗戦で帝国海軍そのものが潰えてしまった[176]。
- ^ 兵78期は、それまでの海兵生徒が「中学4年修了以上」であったのと異なり、新設の「海軍兵学校予科生徒」として中学3年修了者を採用し[187]、1945年(昭和20年)4月3日に4,048名が、長崎県の針尾分校に入校した[186]。
- ^ 陸軍では、1938年(昭和13年)頃に士官学校修業年限を約半減して速成教育に転じたが、これを失敗と判断し、修業年限を旧に復しつつある状況。
- ^ この頃の心境につき井上は「ただでさえ3年修業でも教育は充分でないのに、まことに不見識な年限短縮であった。そして、それも急に決めてきたため、教科はすべてが尻切れになる次第だった。このような取扱いをされる生徒は、人間づくりの最も大切な年頃を踏みにじられたもので、見ようによっては一生を台なしにされるわけで、私は校長として看過すべきではないと思った。そして、今後これ以上の修業年限の短縮には、職を賭しても反対して生徒を守ろうと決心した」と回想する。
- ^ 戦後日本を支配したGHQは、軍の諸学校出身者(海兵や陸士を卒業した者は、旧制高校卒業者と同等に扱われ、旧制大学受験資格が与えられた)を、全学学生の1割に制限した[201]。
- ^ 高木は、前年の1943年(昭和18年)の秋頃から、東條・嶋田ラインの戦争指導に疑問を抱き、海軍部内・部外の同志と密かに意見を交わしていた。同志と語らい、「1944年(昭和19年)7月20日に東條を暗殺する」具体的計画を立てて準備をするに至ったが、実行寸前の7月18日に東條内閣が総辞職したため未遂に終わった[213]。
- ^ 高木惣吉少将は、1944年(昭和19年)から10年ほど前の1932年(昭和7年)「肺尖炎」という病気で転地療養をしたことがあった[214]。1944年(昭和19年)には肺尖炎はほぼ治癒していたが、生来の持病である「胃酸過少症」に悩まされ、常に希塩酸の小瓶を持ち歩かねばならない重症であった[215]。高木を、海軍省教育局長の要職から閑職に退かせても部内に不審を抱かせない名目として、井上が「病気休養」を持ち出すのは自然だった。
- ^ 米内が海相就任後も自宅に住んでいたので、海軍大臣官邸は空き家の状態だった。家族がおらず、東京に家を持たない井上は、次官就任を受諾した時に、大臣官邸の中の使用人区画に住む了解を得て、以来、大臣官邸の中に住んでいた[222]。
- ^ もともと次官は中将のポストである[232]。井上は高木に「次官退任は、大将になったから」と語っている。しかし、嶋田繁太郎の下で長く海軍次官を務めた沢本頼雄が、1944年(昭和19年)3月1日に大将に親任された後も、同年7月まで「軍事参議官 兼 海軍次官事務取扱」として次官の職務を務めた[235]直近の例があったこのため海軍大臣秘書官の麻生孝雄中佐、岡本功中佐らは、「大将次官でなぜ悪い。大将進級に反対する余り、次官までやめることはないではないかと思った」と、戦後不満を漏らしている[236]。
- ^ 井上がいつ長井に引っ越したかは不明。1945年(昭和20年)10月15日の予備役編入に先立ち、8月末に既に井上が長井にいたと伺わせる情報もある[250]。
- ^ 研一は、丸田家の縁者宅を転々とした後、約2年後に、八巻信雄・順子夫妻に引き取られて成人するまで養育され、早稲田大学教育学部を卒業して出版社に勤務した。丸田吉人の妹である八巻順子はクリスチャンで、「この子の面倒を見なければならない」という強い責任感を持ち、夫を説得して研一を引き取った。それを知った井上は、八巻順子に丁重な礼状を送った[262]。
- ^ 山本善雄少将は、あくまでも自分の想像に過ぎないが、として「井上さんが、ちょっとした贈り物にも返礼しなければ気が済まない性分なのは、支那方面艦隊でお仕えした自分はよく知っている。富士子さんの、入院中の井上さんへの献身的な看護ぶりは、我々が頭を下げてお礼を言いたい程であった。しかし、戦後の井上さんにはこれに報いる手立てが何もない。そこに軍人恩給が復活して、受給者(井上)が死んだ場合、親または配偶者は半額の遺族扶助料が終身支給されるようになった。井上さんが、押しかけ女房の気味のあった富士子さんと、敢えて結婚に踏み切られたのは、命の恩人である富士子さんに、自分の死後、僅かながらも終身の年金を保証し、せめてもの 『お返し』 をするためだったのではないか」という旨を述べている[282]。
- ^ 出典に、具体的な時期は書かれていない。矢野志加三中将は1966年(昭和41年)1月に72歳で死去している。1953年(昭和28年)の井上の大病の後、1964年(昭和39年)に深田秀明による金銭支援が始まる前の、昭和30年代のことであろう[283]。
- ^ 浦賀船渠の関連会社で、戦前・戦中はエリコン20ミリ機銃をライセンス生産していた大日本兵器が戦後に機械メーカーに転じて日平産業となった。合併を経て、2012年(平成24年)現在はコマツNTCとなっている。
- ^ この経緯について、井上が1975年(昭和50年)12月に死去した後、井上の相続人である孫の丸田研一が、井上の死の直後に深田から説明された。丸田は晩年の井上を支えていた、兵学校長時代の企画課長だった小田切正徳大佐から深田の説明を裏づける話を聞き、井上宅の押入れから、深田の説明通りの内容の公正証書を発見した[289]。
- ^ 1965年(昭和40年)当時の「古鷹ビル」は、2011年(平成23年)現在は「ふるたかビル」と改称している模様。
- ^ 日名子実三とその作品について詳述している、広田肇一 『日名子実三の世界-昭和初期彫刻の鬼才』 思文閣出版、2008年(平成20年)、74-75頁に、「井上成美像」が、制作の経緯、「 『井上成美』 (井上成美伝記刊行会)から転載」とクレジットされた写真と共に掲載され、「 『井上成美像』 であるが、謹厳実直、信念一貫、眼光炯々、井上の風貌と性格をあますところなく表現した(日名子の)初期肖像作品の優作である」と評されているが、「井上成美像」の所在については記述がない。
- ^ ママ。正しくは「多磨」。
- ^ 以下の文章が、粗末な便箋2枚に書かれていた。 井上成美遺言 (明治二十二年十二月九日生まれ)。
小生の葬儀は密葬の事。
雑件
- (一)、葬儀場は勧明寺(長井町・・・)電話・・局の「・・・・」井上宅から歩いて十分。
- (二)、埋葬。東京多摩[注釈 44]霊園の本家墓地に埋葬のこと。この事は在中野分家の現主人井上秀郎承知。井上秀郎住所(・・・)
- (三)、花輪、供物、香典等は一切お辞退の事。附言。おつ夜その他の段等は荒井、長井等一般世間の習慣に依る事。
- ^ 阿部信行元首相は、井上が市立横須賀病院を退院した直後の1953年(昭和28年)9月7日に死去[279]。
出典
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