山梨勝之進
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山梨 勝之進(やまなし かつのしん、1877年〈明治10年〉7月26日 - 1967年〈昭和42年〉12月17日)は、日本の海軍軍人。海兵25期次席・海大5期。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。
注釈
出典
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山梨勝之進
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1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議の妥結のため、直属の部下であった堀(当時:海軍省軍務局長・海軍少将)と共に身命を賭した、山梨勝之進(兵25期。当時:海軍次官・海軍中将。)は、1959年(昭和34年)5月12日に堀が死去した際、告別式の弔辞において、堀の頭脳と人格を下記のように称えた。 明敏英邁であり、遠く群を絶する。瞬時にして条理明晰、「電光影裡斬春風」の趣きあり。加藤元帥、浜口首相、関係外務当局の深く信頼する所。相識の民間知人、言論界の称賛する所。明鏡の如き叡智、実に醇乎として醇の醇なるもの。中庸の大道に即し脳裡胸中光風明月洒々落々として澄み渡り、片付き切っていた。温情深く友誼に厚い。各方面に多彩の親友。又稀有の理知的才能、裕かなる文化愛好の趣味。高風清節、国士としての風格、実に昔の魯仲連や蘇東坡を思はしむる。 — 山梨勝之進、 同じく山梨勝之進は、堀が死去する1年前の昭和33年(1958年)に堀と会食した際に、下記のように言ったという。 堀君、君死ぬるなよ。以前にもいったが、君が死ぬるとぼくの生きてる価値が、半分いや七割なくなってしまうからな。 — 山梨勝之進、
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