国士として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 15:28 UTC 版)
熊本藩士・安達二平の長男として生まれる。のち佐々友房が熊本市に設立した学校・済々黌で学ぶ。 1894年(明治27年)、朝鮮国で東学党の乱が勃発すると佐々友房の指示で朝鮮半島に渡る。宝田釜山総領事の薦めで邦字新聞『朝鮮時報』、井上馨公使の協力で諺文新聞『漢城新報』を発行。社長兼新聞記者として日清戦争にも従軍した。 井上に代わり駐韓公使となった三浦梧楼の朝鮮王妃閔妃殺害計画に参加し、1895年(明治28年)、在韓の熊本県出身者を率いて乙未事変を実行。中心メンバーとして投獄されるがその後釈放される。
※この「国士として」の解説は、「安達謙蔵」の解説の一部です。
「国士として」を含む「安達謙蔵」の記事については、「安達謙蔵」の概要を参照ください。
国士として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 16:38 UTC 版)
晋に生まれる。初めは六卿の筆頭である范氏に仕官するが、厚遇されず間もなく官を辞した。次いで中行氏に仕官するもここでも厚遇されず、今度は智瑶(智伯)に仕えた。智伯は豫譲の才能を認めて、国士として優遇した。 数年後、智伯は宿敵の趙無恤(趙襄子)を滅ぼすべく、韓氏・魏氏を従え趙襄子の居城の晋陽を攻撃した。三氏の連合軍に包囲された趙襄子は二人の腹心を秘かに韓氏と魏氏の陣営に赴かせて韓氏と魏氏を連合から離反させて味方につけた。韓氏と魏氏の裏切りにあった智伯は敗死し、智氏はここで滅ぼされた(紀元前453年)。 趙襄子は智伯に対して積年の遺恨を持っていたために、智伯の頭蓋骨に漆を塗り、酒盃として酒宴の席で披露した(厠用の器として曝したという説もある)。一方、辛うじて山奥に逃亡していた豫譲はこれを知ると「士は己を知る者の為に死し、女は己を悦ぶ者のために容づくる」と述べ復讐を誓った(これが「知己」の語源である)。やがてほとぼりが覚めると豫譲は下山し、趙襄子を主君の敵として狙った。
※この「国士として」の解説は、「豫譲」の解説の一部です。
「国士として」を含む「豫譲」の記事については、「豫譲」の概要を参照ください。
- 国士としてのページへのリンク