前秦の臣下
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12月、苻堅は鄴宮に入り、正陽殿に昇った。慕容暐は前燕の后妃・王公・百官・鮮卑4万戸余りと共に長安へ連行された。長安に至ると、新興侯に封じられ、五千戸を食邑として与えられた。やがて尚書に任じられた。また、司馬にも任じられた。 378年2月、長楽公苻丕・武衛将軍苟萇らと共に歩兵・騎兵併せて7万を率い東晋領の襄陽攻略へ向かった。4月、前秦軍は沔北から漢水を渡り、襄陽へ侵攻した。379年2月、襄陽を陥落させた。 383年8月、苻堅が東晋征討に乗り出すと、慕容暐は平南将軍・別部都督に任じられ、征南将軍苻融・驃騎将軍張蚝・撫軍将軍苻方・衛軍将軍梁成・冠軍将軍慕容垂と共に歩兵・騎兵合わせて25万を率いて前鋒となった。10月、慕容暐らが寿春を陥落させ、東晋の平虜将軍徐元喜・安豊郡太守王先を生け捕りとした。その後、員城に駐屯した。11月、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると、慕容暐は軍を放棄して逃走し、滎陽に至った。叔父である奮威将軍慕容徳はこの混乱に乗じて再起するよう勧めたが、慕容暐は従わなかった。その後、苻堅に従って長安に帰還した。 384年2月、叔父の慕容垂は丁零・烏桓の兵20万余りを率いて前秦に反旗を翻した。3月、弟の慕容泓もまた関東の鮮卑部族を集結させて反旗を翻した。これを受け、慕容暐は密かに諸弟や宗族へ、長安の外で兵を起こさせるよう画策した。だが、苻堅の防備が甚だ厳重だったので、時機を得られなった。 4月、慕容泓の軍勢に慕容沖も加わり、その勢力は10万余りに膨れ上がった。慕容泓は苻堅のもとへ使者を派遣し「呉王(慕容垂)は既に関東を平定しており、速やかに大駕を準備している。我が家の兄皇帝(慕容泓は慕容暐の弟)を奉送していただきたい。そうすれば、泓(慕容泓)は関中の燕人を率いて乗輿を護衛し、鄴都へ帰還する。以後は虎牢を国境と定め、秦と長く修好を保とうではないか」と告げるた。苻堅はこれに激怒し、慕容暐を召し出すと「今、泓はこのような書を送ってきた。卿が去りたいならば朕は助けてやるつもりだ。しかし、卿の宗族は人面獣心(恩義や人情を弁えない恥知らずな人を指す)であり、とても国士として共にすることなどできん!」と詰った。慕容暐は流血するほど叩頭し、涙を流して謝罪した。しばらくした後、苻堅は「これは三豎(慕容垂・慕容泓・慕容沖の事。豎とは未熟な者の意)の為した事であり、卿の過ちではない」と述べ、慕容暐への待遇は従来通り変わりなかった。また、苻堅は慕容泓・慕容沖・慕容垂を説得するよう、慕容暐に命じた。だが、慕容暐は密かに慕容泓へ使者を派遣して「吾は籠中の人であり、必ずや帰ることは出来ないだろう。それに、我は燕室を滅ぼした罪人であり、顧みるには足りぬ。汝は大業を建てる事に努めよ。呉王(慕容垂)を相国に、中山王(慕容沖)を太宰・領大司馬に、汝を大将軍・領司徒に任じ、承制封拝を委ねる。そして、我の訃報を聞いたならば、汝が尊位(皇帝位)に昇るがよい」と告げた。これを受け、慕容泓は燕興と改元して正式に自立を標榜し、長安へ向かって進撃した。
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