前秦の臣下とは? わかりやすく解説

前秦の臣下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)

慕容暐」の記事における「前秦の臣下」の解説

12月苻堅は鄴宮に入り正陽殿に昇った。慕容暐前燕后妃王公百官鮮卑4万戸余りと共に長安連行された。長安に至ると、新興侯に封じられ五千戸を食邑として与えられた。やがて尚書任じられた。また、司馬にも任じられた。 378年2月長楽苻丕武衛将軍苟萇と共に歩兵騎兵併せて7率い東晋領の襄陽攻略向かった4月前秦軍は沔北から漢水渡り襄陽侵攻した379年2月襄陽陥落させた。 383年8月苻堅東晋征討乗り出すと、慕容暐平南将軍別部都督任じられ、征南将軍苻融驃騎将軍張蚝・撫軍将軍苻方・衛軍将軍梁成冠軍将軍慕容垂と共に歩兵騎兵合わせて25率いて前鋒となった10月慕容暐らが寿春陥落させ、東晋の平将軍徐元喜・安豊郡太守王先を生け捕りとした。その後、員城に駐屯した。11月苻堅淝水の戦い大敗喫すると、慕容暐は軍を放棄して逃走し滎陽至った叔父である奮威将軍慕容徳はこの混乱乗じて再起するよう勧めたが、慕容暐は従わなかった。その後苻堅に従って長安帰還した384年2月叔父慕容垂丁零烏桓の兵20万余りを率いて前秦反旗を翻した3月、弟の慕容泓もまた関東鮮卑部族集結させて反旗を翻した。これを受け、慕容暐密かに諸弟や宗族へ、長安の外で兵を起こさせるよう画策した。だが、苻堅防備甚だ厳重だったので、時機得られなった。 4月慕容泓軍勢慕容沖加わり、その勢力10万余りに膨れ上がった慕容泓苻堅のもとへ使者派遣し「呉王(慕容垂)は既に関東平定しており、速やかに大駕準備している。我が家の兄皇帝慕容泓慕容暐の弟)を奉送していただきたいそうすれば、泓(慕容泓)は関中の燕人を率いて乗輿護衛し、鄴都へ帰還する以後虎牢国境定め、秦と長く修好保とうではないか」と告げるた。苻堅はこれに激怒し慕容暐召し出すと「今、泓はこのような書を送ってきた。卿が去りたいならば朕は助けてやるつもりだ。しかし、卿の宗族人面獣心恩義人情弁えない恥知らずな人を指す)であり、とても国士として共にすることなどできん!」と詰った慕容暐流血するほど叩頭し、涙を流して謝罪した。しばらくした後、苻堅は「これは三豎(慕容垂慕容泓慕容沖の事。豎とは未熟な者の意)の為した事であり、卿の過ちではない」と述べ慕容暐への待遇従来通り変わりなかった。また、苻堅慕容泓慕容沖慕容垂説得するよう、慕容暐命じた。だが、慕容暐密かに慕容泓使者派遣して「吾は籠中の人であり、必ずや帰ることは出来ないだろう。それに、我は燕室滅ぼした罪人であり、顧みるには足りぬ。汝は大業建てる事に努めよ。呉王(慕容垂)を相国に、中山王慕容沖)を太宰・領大司馬に、汝を大将軍・領司徒任じ、承制封拝を委ねる。そして、我の訃報聞いたならば、汝が尊位(皇帝位)に昇るがよい」と告げた。これを受け、慕容泓燕興改元して正式に自立標榜し長安向かって進撃した

※この「前秦の臣下」の解説は、「慕容暐」の解説の一部です。
「前秦の臣下」を含む「慕容暐」の記事については、「慕容暐」の概要を参照ください。

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