前秦の内部事情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 15:32 UTC 版)
382年10月、苻堅は太極殿において東晋討伐を群臣に諮った。皇族では末弟で苻堅の補佐である苻融、少子の苻詵、苻堅が信任する仏僧道安などはいずれも反対した。一族群臣の多くは、「東晋には謝安らの人才が揃っているし、長江の険に守られているので攻撃はたやすくなく、中原平定の後間が無く将兵が疲れている」として時期尚早であるとして反対論を唱えたり、「晋を討つべからずと言う者は忠臣なり」と涙を流して諫言したりした。これに対して苻堅は「朕は大業を継承して20年になんなんとしている。逃げる賊を平らげ、四方はほぼ平定したが、ただ東南の一隅にまだ朕に従わない者がいる」と発言した。 一族・家臣皆が反対する中、慕容垂のみが「弱者が強者に併合されるのは当然の理で、今や陛下の威は海外に伝わり、虎の如き軍兵100万。韓・白(韓信と白起のこと)のごとき勇将が朝廷に満ちています。今主命に従わぬのは米粒のような江南のみ。何を躊躇されることがありましょう」と述べて賛意を示し、苻堅は「朕と共に天下を定める者は、ひとり卿のみ」と大変喜んだという。しかし内心では「主上、甚だ驕気。我が族の中興の業をなすはこの際にあり」と喜んでいた。これで苻堅は南征を決心した。たまりかねた重臣は信任厚い高官を通して苻堅を思いとどまらせようとし、愛妾の張夫人(苻詵の生母)ですらたまりかねて「天の聡明は我が民の聡明による」と『書経』の言葉を引用して諌めたが「軍旅は婦人の預かるべき事ではない」とはねつける有様だった。 これには兵力で圧倒的に優位だったことや苻堅自身の天下統一に対する野望、国境における東晋の現実的脅威などもあったためでもある。
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