前秦襲来とは? わかりやすく解説

前秦襲来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)

慕容暐」の記事における「前秦襲来」の解説

6月苻堅は輔国将軍王猛総大将任じ楊安張蚝鄧羌10将と歩兵騎兵合わせて6の兵を与えて、灞上より前燕討伐に向かわせた。 7月王猛壷関攻め楊安らが晋陽攻撃した8月王猛襲来の報が鄴に届くと、慕容暐太傅慕容評下邳慕容厲40超える中外精鋭兵を与えて救援命じた慕容評は軍を進めて潞川に駐屯した。州郡では盗賊大量に蜂起し、鄴中では怪異事象頻発したという。慕容暐大い恐れ、散騎侍郎李鳳黄門侍郎梁琛中書侍郎楽嵩招集して「秦軍の兵はどのくらいであろうか。今、大軍がすでに出発しているが、秦は戦うだろうか」と訪ねた。これに対して李鳳が「秦は小さく、兵も弱小です。どうして王師の敵となりえましょうか。景略(王猛の字)は常才に過ぎず太傅慕容評)には及ばず憂うには足りますまい」と答えたが、梁琛楽嵩は共に「そうではありません。兵書の義には、敵を計って戦うべきであり、計略をもってこそ取る事が出来るとあります。敵と戦わず済むことを願うのは、万全の道とはいえません。慶鄭(春秋時代の晋の大臣)も『秦(春秋戦国時代の秦を指す)の衆は少なといえども士気は我に倍しており、衆の大小など問う所ではありません』と言っております。それに秦は遠く千里彼方より来寇したからにはどうして戦わないことがありましょう我らも謀を用いて勝ちを得なければなりません。戦わずに済むなど、甘い考えではなりません!」と答えた慕容暐はこの発言に不満を抱いたという。 同月王猛壷関陥落させて、前燕の上党郡太守慕容越生け捕った。王猛軍が進んだ先の郡県は全て降伏し前燕朝廷震え上がった王猛は屯騎校尉苟萇壷関守備任せると、楊安加勢向かった晋陽には兵も糧食も十分備わっていたので、并州刺史慕容荘楊安阻んでいた。 これより以前慕容暐は左衛将軍孟高騎兵率いて袁瑾救援に向かわせ、淮北まで至った。だが、渡河する前に前燕前秦戦争始まったので、8月慕容暐孟高呼び戻した同月桓温寿春攻め落とし、袁瑾を殺害した9月王猛晋陽到着すると、張蚝命じて地下道を掘らせて城内進入させ、城門を内から開いた。これを合図王猛楊安と共に城内突入し慕容荘は捕えられた。慕容評王猛恐れ抱き、潞川に軍を留めそれ以上進まず持久戦持ち込もうとした。

※この「前秦襲来」の解説は、「慕容暐」の解説の一部です。
「前秦襲来」を含む「慕容暐」の記事については、「慕容暐」の概要を参照ください。

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