前秦への称藩
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12月、羌族の斂岐率いる一団は、前秦から反旗を翻して益州刺史を自称し、部落4千家余りを引き連れて西方に割拠していた李儼に臣従した。これを機に、李儼は前秦とも前涼とも国交を断絶した。367年、前秦の輔国将軍王猛らが斂岐討伐に向かうと、これに乗じて張天錫は李儼討伐の兵を挙げ、自らも3万の兵を率いて出陣した。前秦の王猛は略陽を攻略して斂岐を捕え、また張天錫も大夏・武始の2郡を攻略し、さらに常據は葵谷において李儼軍を撃破した。張天錫はさらに軍を進めて左南に駐屯したが、李儼は恐れて枹罕まで後退し、甥の李純を前秦へ派遣し、謝罪して救援を請うたため、前秦が李儼の援軍として参戦する事となった。 前涼軍は王猛らが率いる前秦軍に大敗し、捕虜・斬首併せて1万7千の兵を失い、前涼側の将軍も捕虜にされるという大損害を被った。その後、張天錫は枹罕城下において王猛と睨み合いの状態となったが、ここで王猛は「我が受けた詔は李儼の救援のみであり、前涼と交戦する事ではない。こうして膠着状態となっても、互いに疲弊するだけで良策ではない。もし将軍が退却するのであれば、我が軍も撤退しよう」との手紙を送り、これを読んだ張天錫は軍を撤退させた。その後、王猛は前秦軍の立ち寄りを拒んだ李儼を捕らえ、枹罕を陥落させた。 371年4月、前秦の君主苻堅は、捕虜としていた前涼の将軍の陰拠と兵5千を前涼に返還した。この時、前秦の王猛は張天錫に対し「我が大秦(前秦)は既に関中以東を平定しており、この兵をもって攻め込めば、前涼は抵抗できないであろう。先祖代々の功業を、一代で地に堕とすべきではなかろう」との書状を送り、前秦の傘下に入るよう仕向けた。この書を見た張天錫は強く恐れを抱き、苻堅に謝罪して称藩を告げる使者を派遣した。苻堅はこれを認め、張天錫を使持節・都督河右諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・涼州刺史に任じ、西平公に封じた。
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