前秦への称藩とは? わかりやすく解説

前秦への称藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 08:52 UTC 版)

張天錫」の記事における「前秦への称藩」の解説

12月羌族の斂岐率い一団は、前秦から反旗を翻し益州刺史自称し部落4千家余り引き連れて西方割拠していた李儼臣従した。これを機に李儼前秦とも前涼とも国交断絶した367年前秦の輔国将軍王猛らが斂岐討伐に向かうと、これに乗じて張天錫李儼討伐兵を挙げ、自らも3の兵を率いて出陣した前秦王猛略陽攻略して斂岐を捕え、また張天錫大夏・武始の2郡を攻略し、さらに常據谷において李儼軍を撃破した張天錫はさらに軍を進めて左南に駐屯したが、李儼恐れて枹罕まで後退し、甥の李純前秦派遣し謝罪して救援請うたため、前秦李儼援軍として参戦する事となった。 前涼軍は王猛らが率い前秦軍に大敗し捕虜斬首併せて1万7千の兵を失い前涼側の将軍捕虜にされるという大損害を被ったその後張天錫枹罕城下において王猛睨み合いの状態となったが、ここで王猛は「我が受けた詔は李儼救援のみであり、前涼交戦する事ではない。こうして膠着状態となっても、互いに疲弊するだけで良策ではない。もし将軍退却するであれば我が軍撤退しよう」との手紙を送り、これを読んだ張天錫は軍を撤退させた。その後王猛前秦軍の立ち寄り拒んだ李儼捕らえ枹罕陥落させた。 371年4月前秦君主苻堅は、捕虜としていた前涼将軍の陰拠と兵5千を前涼返還した。この時、前秦王猛張天錫対し我が大秦前秦)は既に関中以東平定しており、この兵をもって攻め込めば前涼抵抗できないであろう先祖代々功業を、一代で地に堕とすべきではなかろう」との書状送り前秦傘下に入るよう仕向けた。この書を見た張天錫強く恐れ抱き苻堅謝罪して称藩を告げ使者派遣した苻堅はこれを認め張天錫を使持節都督河右諸軍事・驃騎大将軍開府儀同三司涼州刺史任じ西平公に封じた

※この「前秦への称藩」の解説は、「張天錫」の解説の一部です。
「前秦への称藩」を含む「張天錫」の記事については、「張天錫」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「前秦への称藩」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「前秦への称藩」の関連用語

1
8% |||||

前秦への称藩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



前秦への称藩のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの張天錫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS