前秦に仕官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 19:29 UTC 版)
苻堅からは歓迎され、冠軍将軍に任命され、賓都侯に封ぜられた。反対に苻堅の側近王猛からは警戒され、苻堅に慕容垂を誅殺するよう要請したが、苻堅は聞き入れなかったため難を逃れた。慕容垂の亡命により前燕は衰退、370年に前秦の遠征が行なわれて慕容垂も従軍し、前燕は滅亡した。前燕滅亡後は前秦の部将として活動し、378年に苻堅の子の苻丕・姚萇と共に東晋方の襄陽城を攻撃、翌年に陥落させ朱序を捕虜とした。382年に苻堅が一族群臣に東晋討伐の是非を諮問した際、苻融をはじめとする全員が反対する中でただ一人「弱者が強者に併合されるのは当然の理で、今や陛下の威は海外に伝わり、虎の如き軍兵100万。韓・白(韓信と白起のこと)のごとき勇将が朝廷に満ちています。今主命に従わぬのは米粒のような江南のみ。何を躊躇されることがありましょう」と述べて賛意を示し、苻堅は「朕と共に天下を定める者は、ひとり卿のみ」と大変喜んだという。しかし内心では「主上、甚だ驕気。我が族の中興の業をなすはこの際にあり」と喜んでいた。 383年に淝水の戦いに参戦したが、東晋の宰相謝安の指揮の下謝玄・謝石ら東晋軍に前秦軍は大敗、慕容垂の軍は無傷だったため苻堅を長安まで送り、撤退を援護した。戦後、北方の反乱平定を苻堅に上奏し、認められ出陣して北方を平定、前秦に反乱を起こした丁零の翟斌を従え河北一帯に勢力を築き、鄴に駐屯していた苻丕を攻撃、384年正月に中山を都として燕王を自称、元号を燕元と改元して後燕を創建した。 甥で慕容暐の弟の慕容泓・慕容沖兄弟もこの機に乗じて西燕を建て、弟の慕容徳が慕容垂に従うなど他の慕容部も前秦から離れていった(慕容暐は苻堅に殺害された)。慕容垂は自立した後も前秦の臣下に留まっていたが、385年に姚萇が苻堅を殺害して後秦を建国した翌386年1月に中山で皇帝を称して完全に自立した。苻丕は鄴で持ちこたえていたが、援軍に赴いた劉庫仁が慕容垂の子の慕容麟に敗れたため、鄴から脱出した。
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