前秦との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:00 UTC 版)
352年11月、後趙の西中郎将王擢は隴上に屯していたが、前秦の丞相苻雄に敗れたので、衆を率いて前涼に亡命してきた。張重華は彼をよく厚遇し、征虜将軍・秦州刺史に任じて仮節を与えた。 353年2月、張弘・宋脩に歩騎1万5千を与えて王擢に合流させ、共に前秦を討伐させた。苻雄・衛大将軍苻菁が龍黎においてこれを迎え撃ち、前涼軍は大敗を喫して1万2千を失い、張弘・宋脩は捕らえられて長安へ送られた。王擢は秦州を放棄して姑臧に撤退した。張重華はこの敗戦を悼み、戦没者の為に喪服を着て哀哭し、さらに使者を派遣して弔問を行った。5月、張重華はまた王擢に2万の兵を与え、前秦領の上邽へ侵攻させた。秦州の郡県は多くが王擢に呼応し、王擢は苻願を撃破して長安まで撤退させた。 その後、張重華は東晋へ使者を派遣して戦勝報告をすると共に、上疎して「季龍(石虎の字)が自斃してその余衆は亡霊となってさまよい、国を奪い合って滅亡の憂き目に遭っており、この機を逃さず兵を発するべきです。臣は今、前鋒都督裴恒を派遣して歩騎7万で隴上へ出て、聖朝の赫然とした勢を待っております。山東は混乱していて考えるには及びません。長安は土地が肥えており、速やかに平定すべきです。臣は西の荒れ地を守任し、山川は悠遠であり、天子が六軍に大誓しても、未だそれを受ける事が適いません。いくら猛将威武を有しても、慶賀の陣列に参加する事が出来ません。空を望んでその日を待っており、孤憤・義傷しては剣を叩いて慷慨しており、心中は鬱積しております」と述べた。7月、東晋より使者が到来し、康献皇后の詔をもって張重華を涼州牧に任じた。
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