はく‐き【白起】
白起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/12 11:11 UTC 版)
白起 | |
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白起(明人絵)
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秦 武安君 |
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出生 | 不詳 郿 |
死去 | 昭襄王50年(紀元前257年)11月 杜郵 |
拼音 | Bái Qǐ |
別名 | 公孫起 |
官位 | 左庶長→左更→大良造 |
主君 | 昭王 |
白 起(はく き、? - 紀元前257年11月)は、中国戦国時代の秦の将軍。公孫起とも表記される。郿の人。兵家。昭襄王に仕えた。
各地を転戦して趙・魏・楚などに数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献し、後の天下統一の基盤を築いたが、最終的に昭襄王の命で賜死した。王翦・廉頗・李牧と並ぶ戦国四大名将の一人。唐代には武廟十哲の一人に列せられた。
経歴
伊闕の戦い
昭襄王13年(紀元前294年)、左庶長に昇爵した。韓の新城を攻めた。
昭襄王14年(紀元前293年)、左更に昇爵した。魏冄に推挙され、向寿に代わって将軍になると韓・魏・東周の連合軍と戦い、伊闕の戦いで倍以上の兵力を相手に勝利し、24万の首級を挙げた。また、総大将の公孫喜を捕え、5城を落とした。功績により国尉に任命された。さらに黄河を渡って魏の安以東を攻略し、乾河まで進軍した。
昭襄王15年(紀元前292年)、大良造に昇爵した。魏を攻め、大小61城を落とした。
昭襄王16年(紀元前291年)、司馬錯と共に魏を攻め、垣を落とした。さらに進軍し、韓の宛と葉を攻め落とした。
鄢・郢の戦い
昭襄王28年(紀元前279年)、楚を攻め、まず鄧を落とし、次いで鄢を攻めた。鄢は楚の旧都にして現都城の郢の門にあたるため、楚は必死に防戦した。そこで白起は鄢の西に堰を築き、造り上げた水路[注 1]に蛮河の水を引き込み、鄢を水攻めした。溺死者だけで軍民数十万人に上り、鄢を陥落させた後、さらに西陵を攻略するなど計5城を落とした。
昭襄王29年(紀元前278年)、郢を攻め落とし、楚王の陵墓ごと夷陵を焼き払った(鄢・郢の戦い)。その後、東に進軍し竟陵を攻略した。国都の郢を落とされた楚は陳(陳郢)に遷都し、秦は郢の地に南郡を置いた。功績により武安君[注 2]に封じられた。
三晋を破る
昭襄王30年(紀元前277年)、楚の巫郡および長江以南の地域を攻め落とし、ここに黔中郡を置いた[注 3]。
昭襄王31年(紀元前276年)、魏を攻め、2城を落とした。
昭襄王34年(紀元前273年)、魏冄、胡昜と共に韓の華陽に救援に向かい、魏・趙と戦って3人の将軍を捕え、芒卯を敗走させ、13万の首級を挙げた。また、趙将の賈偃と戦い、その士卒2万を黄河に沈めた(華陽の戦い)。
昭襄王43年(紀元前264年)、韓の陘を攻め、5城を落とし、5万の首級を挙げた(陘城の戦い)。
昭襄王44年(紀元前263年)、韓を攻め、南陽の地(太行山南と黄河の間の地域)を落とした。これにより韓は上党と南部が遮断された。
長平の戦い
昭襄王45年(紀元前262年)、韓を攻め、野王を落とした。韓の桓恵王は上党を秦に献上して和議を結ぼうとしたが、上党守の馮亭は民衆の不安から降伏を望まず、趙に投降した。趙の孝成王は平原君らの計略に従い、馮亭を華陽君に封じ、土地を接収した。同時に宿将廉頗を長平に駐屯させて、秦軍の攻撃に備えた。こうして秦と趙の長平の戦いが勃発した。
昭襄王47年(紀元前260年)、秦軍は廉頗の堅守の戦略で膠着を余儀なくされていた。状況を打開すべく、秦の范雎は間者を用いて将軍を廉頗から趙括に代えさせると、密かに秦も白起を上将軍に任じ、王齕を副将とした。その秘匿は徹底され、軍中で白起について漏らした者は斬首された。
思惑通り、数で勝る趙括は攻めに転じてきたので白起は偽装退却の戦術を採り、巧みな用兵で趙の補給路を断つことに成功した。趙兵は46日間食糧を得られず、飢えた兵士たちは互いに殺し合って人肉を食らい合った。趙括は精鋭軍を率いて秦軍へ突撃を敢行したがあえなく射殺された。趙括の死によって趙軍は降伏し、捕虜となった者は40万人に上った。白起は「上党の民は秦に従うことを拒否し趙に帰属した。趙の兵士もまた繰り返す。全て殺さなければ乱が起きる恐れがある」と考え、詐略を用いて捕虜40万人を坑殺し、年少者240人のみを趙に帰した。長平の戦いでの趙の戦死者・被処刑者は45万人に達したとされる[注 4][注 5]。
范雎の患い
昭襄王48年(紀元前259年)、范雎は白起があまりに大功を挙げるので、自らの地位を脅かすものとして危惧するようになった。白起が趙を滅亡させてしまうとより事態が悪化すると考え、韓・趙の使者の蘇代の賄賂と説得もあり、昭襄王に秦軍の疲弊を理由とした領地割譲による講和を献策した。昭襄王はこれを聞き入れ、和議を結ぶと正月に戦地から軍を撤収させた。後に白起はこの事を知り、范雎との間に溝ができた。
同年9月、昭襄王は趙を滅ぼすべく再び攻めようした。これに対し白起は「趙は長平の戦い以来、君臣は早朝から夜遅くまで政務に励み、諸侯に和を請い、四国に使者を走らせて関係を構築し、心を砕いて秦への備えを第一としております。今、趙を攻めるべきではありません」と反対した。しかし、昭襄王は既に出兵することを決めており、白起の意見を退けた。このとき白起は病を患い、出陣することはなかった。
昭襄王49年(紀元前258年)、王陵が趙の国都邯鄲を包囲したが戦果を挙げられず、秦はさらに兵を増派したが効果はなく、5人の校尉を失った。白起の病が治ると、昭襄王は王陵と代わることを望んだが、白起は「邯鄲を落とすのは容易なことではありません。加えて諸侯の援軍が到着するのも目前です。秦軍の死者も半数を超え、国内に兵力はありません。趙と諸侯が攻めてくれば秦が破れるのは必定です」と述べて辞退した。白起は昭襄王に命令されても聞かず、范雎にも請われたが固辞し続け、ついには病を理由にした。
最期
昭襄王50年(紀元前257年)、昭襄王は王陵から王齕に交代させたが、2か月かけても邯鄲を落とせず、趙の援軍として魏の信陵君と楚の春申君がそれぞれ数十万を率いて攻撃したため、秦軍は大敗を喫した。この結果に白起は「私の言った通りになったではないか」と言った。昭襄王はこれを聞いて怒り、白起を呼び出したが重病と称して出仕を拒否した。昭襄王は白起を士伍(最下級の兵士)に降格させ、陰密に流刑とした。
白起は咸陽の西門を出て十里の杜郵(郵亭)に到った頃、宮内では昭襄王は范雎や群臣と議論し、「白起は依然として不満を抱き不服である」と結論すると使者を遣わして白起に剣を与え、自殺を命じた。
同年11月、白起は剣を手に取り、「私は天に何の罪があってこのような運命に至ったのか」と述べるとしばらくして、「私はもとより死すべきである。長平の戦いにおいて、趙の降伏者は数十万人いた。私は彼らを欺き、そしてことごとく生き埋めにした。これは死ぬに足りる」と告げて自刎した。
秦の人々は白起の死を憐れみ、各地に廟を建てて祀ったという。
評価
司馬遷は『史記』白起王翦列伝において、白起を「料敵合変、出奇無窮、声震天下(敵の能力を見極めて対応し、奇策を無数に繰り出し、その名声は天下に轟いた)」と評している。一方で「范雎の患いからは逃れることができなかった」と記し、王翦と共に完全無欠ではなく、「尺にも短所があり、寸にも長所がある(一長一短)」とまとめている。
後に三国魏の将軍の鄧艾が讒言をうけて殺される前に、自らを白起になぞらえて身の危機を悟ったとの記述が『三国志』にある。
同時代の人物の評
- 蘇代:「武安君(白起)が秦のために勝利を収めて攻略した城は70余り、南では鄢・郢・漢中を平定し、北では趙括の軍を捕らえた。周公・召公・呂尚の功績といえども、これに及ぶものではない」
- 昭襄王:「楚の領土は五千里に及び、戟を持つ兵は百万に達していた。君(白起)は以前数万の兵を率いて楚に入り、鄢・郢を攻略してその宗廟を焼き払い、東は境陵まで進軍し、楚人は震え恐れ、東に逃れて西を向こうとしなかった。……君はかつて少数で多数を討ち、勝利を得ること神の如くであった」
- 蔡沢:「ついに邯鄲を包囲して、秦に帝業をもたらした。楚・趙は天下の強国であり秦の仇敵であったが、以後、楚・趙が秦を攻撃しなくなったのは、白起の威勢によるものである。功績はすでに成就していたが、それでもなお杜郵において剣を賜り死したのである」
- 平原君:「武安君(白起)の人となりは、頭が小さく顎が鋭く、瞳の白と黒がはっきりと分かれており、視線が動かない。頭が小さく顎が鋭いのは、決断力があり果敢に行動することを意味する。瞳の白と黒がはっきりしているのは、物事の判断が明晰であることを示す。視線が動かないのは、意志が揺るがないことを表す。持久戦はできるが、正面から争うのは困難である」
祖先
『全唐文』故鞏縣令白府君事状によると白氏は羋姓に属し、楚の公族であった。白起の後裔を自称する唐の白居易の説によれば、白起は楚の平王の太子建の嫡系後裔である。建の子の勝は呉と楚の間に居住し、「白公」と号したためこれを氏とした。後に白公は楚に殺され、その子は秦に亡命し、白起はその子孫であるという。秦王政が即位した後、白起の功績を重んじ、白起の子の白仲を太原に分封したとされる。しかし、この説の真実性については明らかではない。
白起を題材とした作品
参考文献
脚注
注釈
- ^ 長渠、白起渠として知られ、省レベル文物保護単位に制定されている。2018年には世界かんがい施設遺産に認定された。
- ^ 『史記正義』によると「兵をよく撫育・養成し、戦えば必ず勝ち、民を安んじて治めたので『武安』と号された」とある。
- ^ 『史記』楚世家によると黔中郡は翌年に楚に奪還された。
- ^ 『史記』の捕虜の生き埋めに関する記述は誇大なものであると長年考えられてきたが、1995年5月の長平の古戦場における発掘調査でそれと思われる人骨が大量に出土し、多くの研究者を驚かせた。
- ^ 永禄第一尸骨坑の発掘レポートによれば発掘済第一坑の屍体数は130人程度、ほかに18坑を発見、調査中である永禄第一尸骨坑のレポート
白起(はく き)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 00:42 UTC 版)
「達人伝-9万里を風に乗り-」の記事における「白起(はく き)」の解説
桁違いの武技と、苛烈かつ神速の用兵で戦場を支配する秦の猛将。将軍となる前の経験から敵の降伏を許さず連戦連勝を続け、その名を大陸中に鳴り響かせ、楚の攻略では王の墓陵を焼く、長平では王命に逆らい降伏した趙軍40万を阬殺、自らの信じる覇業のためには手段を選ばず悪名も意に介さない。長平の戦いの際の王命を無視した暴走を恐れた昭王と范雎により召喚、蟄居を命じられのちに昭王より自裁を命じられる。
※この「白起(はく き)」の解説は、「達人伝-9万里を風に乗り-」の解説の一部です。
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